2021-Week26 Amazon定期便/メルカリ/QRコード決済/Return of the Obra Dinn/腹の具合/日々の生活

20210628 Amazon定期便

Amazonの定期便、突然値上げされることがあるので気を付けなければならない。滅茶苦茶値上げされてる! なんで? と思って調べたら、定期便登録していた商品はマーケットプレイスだけになっていて、Amazonは何故か別の商品として継続販売している、ということもあった。全く油断ならない。

そもそも、注文の手間を省いたり割引して欲しいから定期便の登録をしているのだ。定期便のタイミングで値段をチェックしたり、気を付けないと値上げされた額で自動購入されたりするのは、もう本末転倒も甚だしい。Amazonが一番安く日用品を売っているわけでもないしな。止めるか。

20210629 メルカリ

絶版になっている本がメルカリにしかなかったので、メルカリでの購入をはじめて経験した。出品することはこれまで何度かあったけれど、購入することははじめてだ。

出品者の言い値で購入できるシステムのおかげで、オークション形式のように値段がつり上がらないのがメルカリのいいところだと思った。Amazonマーケットプレイスには高値の中古品しか出品されていないし、あの配送料表示はマーケットプレイスの胡散臭さを加速させている。

「数が少ないけれど手に入れたい人も多くはない」というアイテムは需要と供給のマッチングが難しいので、安く買い取って高く売る、という中古品取り扱い業者のターゲットになりがちだ。しかしメルカリはその需要と供給を個人間でマッチングさせてくれるシステムになので、お互い満足できる値段で取引を成立させてくれる。もちろんメルカリは売上金額から手数料を取っているけれど、その手数料を加味しても満足できる値段で取引ができるケースが多い。

新型ゲーム機みたいに注目を浴びるアイテムについて、メルカリを使いたいとは思わないけれど、ニッチなニーズのアイテムを探す場合にはメルカリは有用だと思う。今まで何となくバカにしていてごめんなさい。

20210630 QRコード決済

そろそろQRコード決済の手段をまとめようと思って、VISA LINE Payのクレジットカードを作ってLINE Payへの一本化を進めていたのだけれど、ここにきてLINE Payの取り扱いを辞めたり、取り扱いレジが縮小されて決済が面倒になったりするケースが増えてきた。どんどん不便になってきている。

VISA LINE Payで買い物をしたときのLINE Payへのポイント還元が大きく、LINE Payでクレジットカードを通して決済するよりも還元額が大きいので、最近はクレジットカードでの決済を積極的にやっているのだけれど、結局QRコードよりクレジットカード決済の方が便利なんだよなと強く思う。コンビニでの少額決済ならQRコードの決済でも楽なのだけれど、iD決済でも手間がかからない。

数年後には、QRコード決済ブームとは何だったんだ、ということになってしまいそうだ。

20210701 Return of the Obra Dinn

Return of the Obra Dinn」をプレイし始めた。無人で発見された商船「オブラ・ディン号」で何か起きたのか、乗客60人の顛末の調査を、死の瞬間を覗き見ることができる不思議な力の懐中時計を使って探っていく推理ゲームだ。ゲーム実況をしている三人称の鉄塔さんのプレイ動画を見て、面白そうだからプレイしようと思っていたのを、ゲームライブラリを見てふと思い出したのだった。

古いパソコンを模した1ビットカラー(白黒)のゲーム画面はクセがあるけれど、死の悲惨なシーンもグロテスクさが強調されないし、ビジュアルからの情報量がある程度限られていることで、推理に必要な情報を判断しやすくなっている。世の中の普通の推理ゲームのように分かりやすいヒントが提示されないところも面白い。

20210702 Return of the Obra Dinn

Return of the Obra Dinn」を二日でクリアしてしまった。それほどのめり込んだゲームだった。

普通の推理ゲームのような感覚で進めていると、あっという間に「読者への挑戦状」状態までたどり着いてしまうので、何度も状況を見返しながら、それぞれの乗客の行く末を推理しなければならない。分かりやすく手掛かりが示されるゲームではなく、強い確信が持てない状態で判断しなければならないところもいい。「このゲーム、ゲーム上のどんな情報を使って推理してもいいんだな?」と気付いてからはもう加速度的に面白くなった。ロジックを少しずつ積み重ねて、乗客60人の行動を推理していく過程も面白い。過去最高に面白い推理ゲームだった。

当てずっぽうで推理を完成できてしまうゲームシステムへの葛藤があるところもいい。分からないならもう当てずっぽうで全部選択肢埋めてみたらいいんじゃない? という悪魔の囁きを振り切って、いや自分で納得して選択肢を決めるんだ!という意志を持って推理を続ける必要がある。ゲームに試されている気がした。

20210703 腹の具合

昼ご飯にステーキを食べたら、夜に全くお腹が空かなくて驚いた。ちゃんとカロリーのある食べ物を摂取したら、胃は余分な食べ物を要求しないんだなと感心した。

20210704 日々の生活

最近色々な人とコミュニケーションをする機会がある。仕事以外で誰かと新たにコミュニケーションを取るのには、案外慣れない。仕事以外の話題を絞り出すのに苦労したりして、すっかり仕事人間として仕上がってしまっている自分に気付く。もちろん仕事以外の部分でも日々の生活を過ごしているはずなのだけれど、仕事以外の話で初対面の人と話を続けることにギクシャクする。そもそも外交的な人間ではないので、仕事の文脈で人とコミュニケーションを取れるのに慣れただけ、とも言える。


特典付きの本を、購入するかどうか数日迷っているうちに買い逃してしまったのだけれど、店頭から消えたことに気付いた途端、何としてでも特典付きの本を買わねば!と思ってしまって、何件か本屋を駆けずり回ってしまうという、恥ずかしいことをしてしまった。手に入らなくなった途端に欲しくなる。心理の効率が悪い。

2021-Week25 ファスト映画/珍品/ゲリラ販売/仕事あっての趣味/感染拡大/電動歯ブラシ/人出

20210621 ファスト映画

ファスト映画」という動画ジャンルの存在を知った。映画のまとめ動画のようなものをファスト映画と呼ぶらしく、映画産業がそれを問題視しているらしい。

体験するのに長く時間がかかってしまうものは、「まとめ」の対象になりがちなのだと思う。長編小説の内容を粗筋なり漫画なりでまとめた本は以前から店頭でよく見かける。長時間の体験を短くまとめるコンテンツ自体には以前からニーズがあって、かつ正当な欲求として世の中で市民権を得ている。ファスト映画を世の中の人たちが受け入れる土壌は、世の中にすでにあったのだと思う。

このファスト映画が取り締まられようとしているのは、著作権者の利益が阻害されているからだ。ファスト映画を見た人が映画を見ないから、ファスト映画が取り締まられようとしている。

こういった「まとめ」というものは、ネタバレの一種だと私は思う。ファスト映画を見た人が映画を見ないのは、ネタバレを読んで本編を見る気が失せてしまう感覚と同じだろう。つまりファスト映画の視聴者の多くは、率先してネタバレを確認しようとしている。ネタバレを踏むぐらいなら、別にその作品のことを何も知らないままの方が余程いいと思うし、もしネタバレを見るとしたら、オリジナルをそのまま体験する価値がないと判断した場合だけれど、ファスト映画のようなネタバレを率先して好む人が増えているのが、今の世の中なのだろう。

こういった人は恐らく、作品を体験することを「情報」だと捉えているのだと思う。作品を解釈する権利を放棄して、誰かが解釈した結果だけを読んで吸収する。全ての作品には「唯一の正しい解釈」が存在していると考えてているから、誰かが解釈したネタバレを見て作品を体験したつもりになれるのだ。ただ実際には、作品を体験した人の数だけ、その作品の解釈はあるはずなのだ。ストーリーの理解が同じだったとしても、印象に残ったシーンが違うというケースは多いだろう。

ファスト映画を取り締まっても、映画のネタバレはインターネット上の様々な場所に存在している。Wikipediaだってそうだ。ファスト映画がなくなっても、情報化された体験との戦いは続く。だからファスト映画がなぜ人気なのか、脅威になり得るのかを、映画産業は真剣に考える必要があると思う。これは映画を観るという行為の価値についての話だ。映画のタイトルに興味を持った人が、じゃあ映画館に行こう、(正当な手段で)映画を全編観よう、と考えるような導線作りが映画産業には求められている。

少なくとも「『要は』こういう映画ですよ」と魅力を単純化する宣伝ばかりやっていては、ファスト映画のようなネタバレに人は流れるばかりだと思うよ。

20210622 珍品

コカコーラもアサヒビールも、オリンピックのロゴを付けた商品を売らないんだなと思っていたら、コンビニにあるアサヒスーパードライにはロゴが付いていた。是非他の商品にもロゴを付けておいてくれ、ダセえ企業の商品を避けやすくなるからよ、と天邪鬼なことをつい言いたくなる。

どのスポンサーもオリンピックロゴを付けた商品は売りづらいのだなと思ったけれど、よく思い返すと一つ、オリンピックとタイアップした商品をずっと店頭に並べているジャンルがあった。バンダイのプラモデルだ。ガンダムとハロはよく店頭に並んでいるし、ちゃんと動きがあるようにも見える。

これに関しては、珍品として手元に置いておきたいという気持ちはちょっと分かる。中止になった方が珍品度は高まっただろうな。

趣味の悪い考え方だけれど、中止にしたほうが「幻のオリンピック」としてそのイベントの価値は上がったのかもしれないな。少なくとも今のようなダーティなイメージにはならなかっただろう。

20210623 ゲリラ販売

ヨドバシのクレジットカードを作った。PS5をヨドバシの店頭で購入しようと思ったのがカードを作った大きな動機だったのだけれど(ヨドバシの店頭でPS5を買うには、本人証明としてヨドバシのクレジットカードが必要なのだ)、PS5の店頭ゲリラ販売の現場に立ち会うのがなかなかハードルが高い。

ヨドバシの梅田店や京都店で、PS5をゲリラ販売している現場を見かけることはたまにあった。ただ受動的にゲリラ販売の現場を目撃するのと、能動的にゲリラ販売に参加するのとでは大きく違う。

外出の自粛が求められるご時世に、足繁く店頭に通うなんてことはできないので、運良く現場に出会えることを期待するしかない。


漫画をTwitterで紹介する時に「~の話」といった説明的なキャプションを付けるのは味気ないなと思う。ラノベで説明的なタイトルを付けるのは文化だと思うけれど、ちゃんとしたタイトルがある漫画を紹介するのに、タイトルを書かずに説明を書いてしまうのには、あまり惹かれない。

致命的なのは、その漫画紹介を読み終わっても、肝心のタイトルを記憶に残せないことだ。後からあの作品なんだったっけ?と思い出そうとしても、作品の詳細にたどり着けずに忘れてしまった漫画はたくさんある。

20210624 仕事あっての趣味

仕事に対する一喜一憂が激しい。仕事に振り回されてしまうのは、やっぱり心のどこかで、仕事を生きがいだと思ってしまっているのかもしれないな。

というより、仕事以外に対してあまり強い興味を持てなくなっているのかもしれない。趣味は山ほどあるけれど、仕事の調子が悪いと趣味への興味がかすんでしまう。趣味が存分に楽しめているのは仕事でお金を稼いでいるおかげだと思っているから、地盤となる仕事が不安定だと趣味への興味も揺らいでしまうのだろう。

脳味噌を一ミリも使わずに仕事ができるようになるのが一番幸せなのかもしれないな。ただそんな仕事に就いていたら、それはそれで失職しないか不安で趣味に没頭できなさそうではある。

何も引け目を感じずに仕事し、かつその仕事が誰にも真似できない、というのが精神衛生上ベストなのだろう。ただそれは天才の仕事だ。天才に生まれたかったなあ……。しかし天才は天才でまた、天才なりの悩みがあったりするのだろうな。仕事が終わったら仕事のことは忘れて生きていけたらいいのにな。そう思って世の中の労働者は、夜に酒を飲むのだろう。

20210625 感染拡大

東京のコロナウイルスの感染者数が増え続けている。潜伏期間を考えると、緊急事態宣言中の時点で感染が拡大していたということだろう。宣言解除するとさらに感染拡大は加速するだろうし、ワクチン接種が進まない限りは感染者数を抑制できないだろう。オリンピックにPCR検査のキャパシティを奪われて感染者が減ったように見える可能性はあるかもしれないけれど……。

春頃の増加傾向がここから続いていくとすると、オリンピックの開会式の頃にはまた緊急事態宣言の発令を迫られるのだろうか。日本の蒸し暑い気候がウイルス感染を抑制してくれることを願うばかりだ。

オリンピックの開催にリソースが割かれることで感染は拡大するだろうし、オリンピックと同時期、それ以降に予定されていたイベントのいくつかは中止、無観客に追い込まれるだろう。

この一年間、飲食業、販売業、レジャー業が少しずつ分け合って食べてきたパイを、オリンピックは根こそぎかっさらってしまう。それだけではなく備蓄の小麦も底を突くだろう。分け合う気がない人が乗り込んできてしまったら、共同生活に必要な信頼は消し飛んでしまい、未来のことを考えない資源の奪い合いになる。


ワクチン接種が進んでいるイスラエルやイギリスでコロナウイルス感染が再拡大している。世界的に見てもオリンピックなんてやっている場合ではないのだ。

DMM英会話で外国人講師とオリンピック開催の是非について意見を交わすことがあるけれど、開催は危険だから中止すべきだという意見の講師にしか出会ったことがない。私が会話するDMM英会話の講師は先進国在住ではなく、ワクチン接種の目途も立っていない国が多い。

オリンピックの開催について講師と会話しながら、開催に突き進む日本の判断が恥ずかしくなってしまう。なぜ安全と考えているのか? という講師からの質問に、私は日本語でも回答ができない。


もし私がオリンピックが好きで、近年で一番楽しみにしていたイベントがオリンピックだったのなら、オリンピックを開催して欲しいと思ったかもしれない。私がオリンピックに出場する権利を持ったアスリートだったら、できれば開催できないだろうかと思ったかもしれない。ただ残念ながら私はもっと他に大切なものがあるし、それは他の多くの人にとってもそうなのだろう。だから世論調査では開催の延期や中止を求める声が多数だったのだ。

開催したらどうせ皆オリンピックを見るでしょ、というのは、そりゃそうだと思う。世界の最高峰のアスリートが集うイベントなのだから。ただそれはオリンピックの開催の是非とは関係がないことだし、開催を正当化することにはならない。

アスリートが主役の大会として、スポーツの世界大会をやるのはいい。ただパーティ的なものとしてやる必要はない。パーティにしたいのは耳目を集めたいスポンサーの都合だろうけれど、主役はアスリートであってスポンサーではないのだ。わざわざ観客を集めてやる必要もない。今回会場で観客が競技を観てその感動を周囲に伝えたとして、周囲がその観客の感動に心を寄せられるわけがない。開会式や閉会式もいらない。そもそも種目別に分けて大会を開催すればいいし、感染拡大の危険性が高い競技は中止したほうがいい。オリンピックという看板が邪魔なら外せばいいし、看板をそのままにしてシンプルな競技大会にするのもいい。関係者には是非ともリモートで参加してもらうべきだ。

20210626 電動歯ブラシ

Amazonプライムセールで唯一買った、フィリップスの電動歯ブラシが届いたので早速使ってみた。

これはすごい。驚くほど歯がツルツルになる。舌で歯を触ったときの感覚が明らかに違う。今までの歯磨きは何だったんだ。

電動歯ブラシを使ってみても、なんやかんやで普通の歯ブラシで磨かないと不安になるかもな、慣れた方法からは離れられないかもしれない、と心配していたけれど、これは一気に価値観が逆転した。素晴らしい。もうむしろ電動歯ブラシで磨かないと不安になってしまいそうだ。

20210627 人出

梅田に出掛けた。すっかり緊急事態宣言前の頃の人出に戻っていた。

親子連れを多く見かけると、人出が戻ったなと思ってしまいがちになる。親子連れというグループの形に不要不急を感じてしまうからだろうか。もちろん大人が一人で歩いていたら、それは必要な外出であると言えるわけではないのだけれど。私の外出が必要な外出なのかも怪しい。そもそも必要とはなんだ……ひつよう……。

街が賑やかだと気が緩んでしまい、街が静まりかえっていると気が張る、という気持ちの動きはあるかもしれないなと思う。これだけの人が外出しているのだから大丈夫だろう、と思ってしまうのは、なんだかいい加減な生き方ではある。少なくともコロナ対策の観点では、街が静かだと安心し、街が賑やかだと危険を感じるべきなのに。

2021-Week24 人生を選べ/ドラマチックではない人生/責任の取り方/翻訳リソース/クックドゥ/資質/党と政権/冷める趣味/TOPANGA

20210614 人生を選べ

減量のためにランニングを週に二回ほど続けているけれど、なかなか体重に反映されてこない。さすがに始めてから一ヶ月ぐらい経たないと効果は現れないと思うけれど、若い頃はもう少し簡単に体重が減ったのになと思ってやきもきしてしまう。


先週に受診した健康診断の結果が送られてきた。内臓脂肪が少し多いらしい。

内臓脂肪を減らすには運動が必要だし、食べるものにも気を遣わなければならないのだろう。脂肪が増えているのはやっぱり、去年の春にジムを辞めたことが大きく影響していると思う。あとコロナ禍で外食は控えるようになったけれども、家でご飯を食べるときでも、食べ過ぎたり油の多い料理を選びがちなことが影響しているのだろうな。

一人暮らしの影響なのかもしれない。誰かと同居すればヘルシーなご飯をその誰かに作ってもらえるということではなくて、一人で生活していると、生活を自分一人で全て判断してしまうので、どうしても生活に偏りができてしまうのだ。自分に対しては甘くても、誰かの目線があったり、誰かのためになら節制できている、かもしれない。

若い頃は不安定な生活でも健康を維持できていたけれども、年齢を重ねると生活と健康が直結してくる。若さだけで維持できていた健康を、若さがなくなったときにどう維持できるのかは、もちろん経験則で分かるものではない。若い頃の生活に戻せば健康が維持できるわけではないのだ。

一人で老いるということを、今の年齢になるまでにもう少し真剣に考えるべきだったのかもしれない。「結婚する」という選択をしなかった人生だと思っていたけれど、その「結婚する」はオプション選択ではなく、「一人で生きる」という選択だったのだ。

一人で生きること自体が間違いだとは思わないけれど、それは自身があえて選択した結果としてあるべきなのだろうな。

20210615 ドラマチックではない人生

大豆田とわ子と三人の元夫の最終回を見た。

このドラマの思い切ったところは、分かりやすいストーリーを視聴者に提示しなかったことだ。こんな最終回になるとは多くの視聴者が予想できなかっただろう。

第一話を見た人の多くが、最終的に主人公のとわ子は誰と結婚するの? 何やかんやあって誰とも結婚しないのかな? という点が気になったと思うけれど、このドラマはそれをメインストーリーには据えなかった。ストーリーからの要請で人生が変わった登場人物はいたけれど、主人公を巡る恋愛や結婚に関しては、分かりやすいストーリーのパターンに当てはめなかった。

結婚こそが最上の幸せであり人生のクライマックスである、という結論は提示しなかったけれど、人生の大きな決断であり縁ではある、ということを示したこのドラマ。それは自由な生き方への肯定であると視聴者は捉えたと思うし、自由に生きた人生を愛していこうというメッセージであると視聴者は感じ取ったと思う。だから色々な立場の人に支持されたのだ。

こういったドラマが地上波でもできるようになったのだ。地上波への注目が弱まってきた今、お約束に縛られない番組作りができるようになってきたのかもしれない。

20210616 責任の取り方

オリンピックの開催の是非に関して、判断をした政治家は責任が取れるのか? と疑問視する意見をよく聞くけれど、どう責任を取って欲しいのか? という具体的な部分は人によって差があると思う。

会社員の場合、自分の仕事に責任を持って進めるということは、達成できなかったら役割や給与に影響しますよということを意味している。

ただ政治家にとって責任を取ってもらいたいというのは、達成できなかったときに給与を減らすことではないと思う。政治家はそもそも給与のために働いているようには見えない。「役職を降りる」というのは政治家の責任の取り方の一つのようには見えるけれど、その政治家が役割を降りたところで、私たちの生活が良くはならない。悪くなり続けることは止められるかもしれないけれど。

そもそも、達成できなかったらデメリットがあるから頑張って達成してくれ、という考え方自体、あまり政治家に対して要求したいことではない。政治家の判断によって組織に大きなデメリットが発生してしまったら、それは政治家の処遇で賠償できるものではないのだ。

「私が責任を取るから進めよう」というのは格好良い口上だけれど、本人がそう思っても責任が取れないことだってある。判断する人間の責任の取り方が組織にとって納得できるものなのか、それが大切だ。組織がその責任の取り方に納得ができないなら、組織が判断に納得ができるよう説明するべきだ。ただオリンピックについては、その判断する人が誰なのかすら、有耶無耶になっているのだけれど……。

これは政治家に限ったことではなく、会社員においてもそうなのかもしれない。役職が上がっていくと「私が責任を取る」とヒロイックに言いたくなりがちではあるけれど、その言葉が何を意味するのかをもう少し慎重に考えるべきなのだろう。実際のところ、達成基準を有耶無耶にできそうな場合にのみ「私が責任を取る」と言いがちではあると思う。

20210617 翻訳リソース

仕事を英語で進める機会が増えて、すっかり仕事ができない人になってしまった。英語を使うことに脳のリソースのほとんどが割かれてしまって、仕事の本質的な部分に脳のリソースを投資することができていない。英語を使うことで脳がフリーズしそうになってしまうと、会議でも内容を追うだけで精一杯になってしまったり、うっかり的外れなコメントを発言してしまったりする。中途半端に英語でコミュニケーションが取れるようになったせいで、むしろ対外的な盆暗感は増してしまった。

近い将来には英語へのリアルタイム翻訳が実現できるのではと以前は思っていたけれど、どうやら私が現役の頃には難しいと思っていた方が良さそうだ。GoogleやDeepL翻訳は優秀だけど、リアルタイムであの制度の翻訳ができたとしても、まだ円滑なコミュニケーションは達成できないだろう。英語の勉強をして、英語に脳のリソースをできるだけ割かないようにしなければならない。これは自力で越えなければならない壁だ。

20210618 クックドゥ

クックドゥを使って麻婆豆腐を作っているときに、「クックドゥは手抜き」という、以前ネットで盛り上がった話を思い出した。もし誰かにこの夕飯を作っていたとして、クックドゥは手抜きだとその人に言われたら相当ビックリしただろうな。

そもそも、クックドゥはそんなに手抜きにならないのである。調味料を混ぜる手間が省けるだけで、食材を揃えてカットして調理して、という工程は必要だ。普通に豆板醤や甜麺醤を使って麻婆豆腐を作ることもあるけれど、調味料を計って混ぜるのがクックドゥになったところで、それほど手を抜けていない。スーパーの惣菜コーナーで調理済みのものを買った方が余程手を抜けるだろう。

クックドゥを使っても味見はして調整するし、作っている側からすると手抜きしている感覚がそもそもないと思う。もしこれを手抜きだと言われると、こいつ料理したことがあるのか? と思ってしまいそうだ。もちろん「本当に『料理』している人」からすれば間違いなく手抜きなのだろうけれど。

結局、その仕事のことをそんなに知らない人に口出しをされるのが嫌、という感覚なのだろうな。

20210619 資質/党と政権

「専門家は『リスク評価』をして政治家は『リスク管理』をすべきである」という言説を読んで改めて、政治家には何を期待すべきなのだろうかとまた考えるようになった。

政治家は専門家ではない、組織の管理をするのが仕事であるというのは、なるほどそうなのだろう。ただそんなスキル要素、例えばリスク管理の実績で候補者に投票しようと思ったことは今までなかった。

いやしかし、そもそも今までどういった要素で候補者に投票していたんだろうか? 所属する党? 人柄? 当選回数? 議員としての役割?

政治家にも客観的に資質を評価できるような基準が必要だったりするだろうか。そもそも平常時と有事では政治家に問われる資質が異なる、というのも今の制度が抱える課題ではあると思う。


多くの人が今の与党に引き続き政権を取っていて欲しいと思っている気はする。無党派層においては消極的にそう考えているケースが多いだろ。これはこのコロナ禍において、第一野党から建設的な問題提起ができているようには見えないのが大きい(個人の感想です)。

ただ多くの人が今の与党を許容できたとしても、今のトップには納得していないと思う。党への支持と、内閣への支持を分けて意見ができるようになったら状況は変わると思うけれど、国民が内閣を直接的に選ぶことができないので、「党=内閣」という考え方になりがちなのだろう。党の内部判断に国民の意見を通しづらくなっていることが、内部腐敗に繋がりがちなのだと思う。

アメリカの大統領選みたいなことをする方が、国民の納得感は高いのかもしれない。ただ国民の投票で決まることの欠点も、アメリカを見ていれば分かる。難しい。

20210620 冷める趣味/TOPANGA

映画を観に行こうと思ったけれど、見たかった映画と映画館の上映予定がかみ合わなかった。いつの間にか映画館での上映が終わってしまった映画もあって悩ましい。ステイホームと映画館のタイトな上映スケジュールは、相性が悪いとつくづく感じる。見逃しても運が悪かったと諦めるしかないだろう。

緊急事態宣言下で、観られないかもしれない新作映画をチェックし続けるのは難しい。関西に住んでいると関東でやるライブ予定をチェックしないように、観られないかもしれない映画の予定はチェックしなくなる。楽しみにしていた映画を見逃すショックが薄く積み重なってしまうからだ。

こうして趣味への興味が少しずつ失われていくのだろう。コロナ禍が収束したとしても、エンターテイメント業界が元通りにはならないと思う。一度冷めてしまった興味をもう一度沸かすのは、やっぱりそれなりのエネルギーが必要だ。

全く今日はやる気が出ない! ということで、一日家で過ごした。

夜はずっと格闘ゲームの大会であるTOPANGA CHAMPIONSHIPの本戦リーグを見ていた。展開が素晴らしかったし、その結果も素晴らしいものだった。格闘ゲームの大会が面白いのは、出場者に魅力があることが第一だと思うけれど、この大会においては運営のTOPANGAの功績も大きいと思う。

リーグ戦の組み合わせ順番にこだわったりするなど、普通の大会だと公平性を優先してやらないことを、この運営は最大限やるようにしているし、それが大会の盛り上がりに繋がっている。努力で公平性が維持できる部分は可能な限り公平性を優先した上で、演出と公平性の二者択一においては演出を取っている場合がある。それは大会に関係する誰もが、プロ格闘ゲームのシーンを盛り上げなければならないと理解しているからだ。

格闘ゲーマーの誰もが優勝を目指したいと思っている一方で、誰もが視聴者の印象に残るプレイをしたいとも考えているから、演出を優先することを当然のものであると受け入れている。信頼関係があるというのは素晴らしいことだし、それはシーンに長い歴史があるからこそだろう。

2021-Week23 献血/慣れより工夫/浪費と贅沢/囚人のジレンマ/継続は力/ワクチン格差/RECORD STORE DAY/toi books/これからのビジョン

20210607 献血

梅田で健康診断を受診した。受診した病院はとても豪華な内装で、丁寧なアテンドにも感心したのだけれど、最後のバリウム検査で気分が台無しになった。汗を滲ませてゲップと戦いながらレントゲン台の上をのたのたと回らされるバリウム検査、いい加減もう少しやり方は工夫できないものなのか。

台の上でゲップをこらえるのに意識を集中していたら、体勢変更を指示する「右」と「左」の区別すらもつかなくなってしまい、先生をえらく不機嫌にさせてしまった。「ザ・老人」という立ち振る舞いをしてしまったような気がして、しょんぼりする。


午後に時間があったので、献血に行ってきた。コロナ禍の影響で献血が足りていないと言う話を聞いていたので行ってみたのだけれど、献血センターでは多くの人が受付をしていたので驚いた。どうやら行ってきた「阪急グランドビル25献血ルーム」は見晴らしのいい人気の献血ルームらしく、受付のタイミングによっては待ち時間が発生することもあるそうだ。

コロナ禍の平日に梅田で献血をする人たち。老若男女、色々な属性の人が集まってきていて、その集団には何の傾向も読み取れない。さまざまな社会的背景を背負っているだろう人たちが、ただ一人の「人間」として集まって、誰かのために時間を使って血を分け与えている。不思議な空間だ。

献血の良いところは、「ただ今まで生きていたこと」が誰かのためになるということだと思う。今日の私は血小板を提供した代わりに、自己肯定感を手に入れた。

体質によっては難しい場合もあるし、もちろん無理してやるものではないけれど、時間さえあれば気軽にできる社会貢献の一つだと思う。


久々の梅田は多くの店が開店していて、人出もそれなりには戻ってきていたけれど、やっぱり店内の客はまだまだ少ない。もちろん緊急事態宣言下なので、外出する人は少なくていいのだろうけれど、がらんとしている店内を見てしまうと、もっと客が多い方がいいだろうになと思ってしまいそうになる。気の持ち方が難しい。お店は開けてもいいけれど、客は出歩いたら駄目、というのは悩ましいジレンマだ。

20210608 慣れより準備

この一年の経験のおかげで、初対面の人とオンラインで会話するのにも慣れてきたなと思っていたけれど、今日は初対面の人と上手くコミュニケーションが取れなかった。

「何となくでできていることは、何となくでできなくなることがある」ということなのだ。そもそも不得意だという自覚があったのだから、ちゃんと準備をしておくべきだった。不得意は慣れでも解決できると思うけれど、慣れで克服したい場合は、慣れるまで何回か失敗することを甘受しなければならない。失敗できない場面なのなら、失敗しないための工夫を予め仕込んでおく必要がある。

失敗する前に工夫ができるようになることこそが「大人になる」ということなのだろう。大人への道は長く遠い。

20210609 浪費と贅沢

お金を使いすぎている。家計簿がそう言っている。

勉強のためだと思ってお金を使いすぎているし、本を買いすぎているし、音楽ライブの配信にお金を出しすぎている。コロナ禍において消費は正義だ! という思いに後押しされすぎているのかもしれない。ただ財布の紐が緩くなってしまうのは、ストレスが原因でもあるのかなと思う。ストレスがかかっていると、何か毎日に変化を求めがちになってしまい、何かしらにお金を使ってしまう……のかもしれない。なんでもストレスのせいにしがちなのは申し訳ないけれど。

そんなことを考えていたので、スーパーでキウイフルーツを買うとき、ゼスプリゴールドではなく普通のグリーンのゼスプリに手が伸びた。キウイフルーツは贅沢品だけれど、さすがにゼスプリゴールドはやり過ぎだろう、せめて節約せねばと思ったのだ。

ただ安い方のゼスプリを選んだという気持ちがあったからだろう、晩ご飯のデザートに一つ食べてみて、やっぱりゼスプリゴールドを買った方が良かったかなと後悔してしまった。上のグレードがあるのが分かってしまっては贅沢には浸りづらい。

中途半端に切り詰めてしまうと、折角の贅沢が不完全燃焼になってしまう場合がある。蛇口の捻り方は本当に難しい。

20210610 囚人のジレンマ

この夏から秋に向けて、これまで自粛していた類の色々なイベントが動き出そうとしている。いよいよ出口が近づいてきたような雰囲気を感じる。ワクチン接種の目途が立ってきたことが大きいのだろう。ワクチン接種率が先行している欧米は一足先に社会活動の再開を進めているけれど、あの欧米の光景が恐らく半年後ぐらいの日本の姿なのだと、みな期待しているのだ。ワクチンの存在が未来を照らしている。

最近は誰かに会ったときに、ワクチン接種を話題にすることが多くなった。そこで気になっているのが、ワクチンを打つか打たないかの判断を迷っている人が案外多いことだ。周りの人にはワクチン接種をして欲しいけれど、自分はどうしようか迷っている……という話を聞くこともある。

ワクチンによって集団免疫が得られるのかどうかは明確な指針がでていない? けれど、ワクチン接種をした人が増えることで地域の感染者数が減り、社会が動き出す余裕が生まれるのなら「私がワクチンを接種しなくても、周りが接種してくれたら社会は元通りに動き出してくれる」という考えが浮かぶのは自然だ。そうなると、ワクチン接種を周囲に勧めつつ自分はワクチン接種をしない、というのが利己的だけれど強い戦略になり得る。

ただ本来は、ワクチン接種は自分の身を守るためのものなので、利己的に考えたとしてもワクチン接種をするのが正解であると思う。ワクチンが怖いか、コロナウイルスが怖いか。影響と可能性を定量化しづらい比較だけれど、ワクチンがあるのにコロナウイルスに感染して重症になるリスクを、今更受け入れる気はない。ワクチンは人間によってコントロールできるものだけれど、コロナウイルスはコントロールができない、それが大きく違う。

20210611 継続は力/ワクチン格差

今夜のランニングは良いペースで走ることができた。特にペースアップを意識して走っているわけではないのだけれど、今日はいつもより一キロ毎で三十秒は速いペースで走ることができていた。嬉しい。ようやくランニングを習慣的にしていた頃の足に戻りつつある。エクササイズに必要なのはやっぱり継続なのだ。


先進国の首脳が集まって、ワクチンを途上国に供給しようと言いつつ、オリンピックを開催しようと同時に言っているのは、かなり気持ち悪いと思った。

日本がやると言ってしまったら、他の国はその発言に反発はしづらいのだろうし、日本で感染が広がったところでワクチン接種率が高い他の出席国にとっては大きな打撃にならない。ただこれらの動向を総合すると「途上国の皆さん大変でしょうけれど、我々は一足お先にオリンピックをさせて頂きますよ、ワクチンは準備しますのでお待ち下さいね」というメッセージになってしまっているのは問題だと思う。

途上国からはどれだけの選手がオリンピックに無事参加できるのだろうか? オリンピック精神はすっかりナンセンスなものとなってしまった。これからは商業的・特権的なイベントとして運営されるべきだろう。

ワクチンがコロナ禍においての救世主となったわけだけれど、同時にワクチンが国の格差をより大きいものにしてしまった。ワクチンを持っている国は強い。先進国が先にワクチンのメリットを享受できていることを、先進国の国民である私は否定できない。だけれども先進国としてもう少し、世界全体を慮った行動ができたらいいのにと思う。

20210612 RECORD STORE DAY/toi books

RECORD STORE DAYだ!ということで大阪に出かけた。久々にFLAKE RECORDSに行くつもりだったのだけれど、閉店時間が18時だということを知らずに空振りしてしまったので、梅田丸ビルのTOWER RECORDSに目的地を変えた。大きいチェーン店に行くのはRECORD STORE DAYらしくないと思うけれど、下調べが甘かったのは自分の責任だ。目当てにしていたメジャーなレコードを最低限だけ買った。

本町のtoi booksにも寄った。久々のtoi booksは本がひしめいていて、店主の本棚を眺めているような気持ちになった。「こういった本があることを、足を運んだ客に伝えたい」という意識がとても強い本屋さんだと思っていたけれど、そのリコメンドの意識が陳列の枠を越えだしていて、とてもいい。私が本屋に求めているのは情報の密度なので、この空間はとても居心地がいいなと思った。住みたい。結局は誰かの本棚を覗くのが一番面白い、ということなのかもしれない。

20210613 これからのビジョン

駅前もすっかり人出が戻ってきて、家族連れの姿を多く見かけるようになった。緊急事態宣言が出ていたところで、行政から店舗に対して強い休業要請がないのだから、人出は戻るだろう。

問題は、緊急事態宣言前の生活様式に戻ってしまうと、感染者数はまた増え出してしまうということだ。生活様式以外何も変えずに感染者数を減らしただけなのだから、生活様式を戻したら感染者数はまた増えるだろう。

ワクチンが国民に行き渡るまでのあと何ヶ月間かの間、どうやって社会を進めていくかが問われているのだと思う。

恐らくあと数ヶ月でワクチンが行き渡るのだから(オリンピック開催のように)目をつぶって逃げ切らせてくれ、とばかりに多くのイベントが先走って動き始めているけれど、感染者数が減った以外に状況は変わっていないし、抜本的な対策であるワクチン接種はまだ十分に広まってはいないので、下手すると一気に感染が再拡大してしまい、ワクチン接種のペースに影響する可能性すらある。

目の前のゴールを意識してしまって収拾が付かなくなる、みたいなことがないようにして欲しい。6月20日に宣言を解除したとしても、一ヶ月後にはまた感染者数が増加しているだろう。それとも夏は感染者数が減るという去年のパターンが、運良く今年にも訪れてくれるだろうか。

先のビジョンが見えないと、事業者は活動を先走るに決まっている。ワクチン接種がどんなペースで進むのか、ワクチン接種が進んだら社会活動はどう元に戻していくつもりなのか、私たちに今必要なのは、これからのビジョンだ。

2021-Week22 SUPERSONIC/緩和/くるり/ランニング/金曜の夜/オリンピックの優先度/平凡な週末

20210531

SUMMERSONICではなくSUPERSONICが、この9月に海外アーティストを呼んでの開催を目指しているとの声明が出た。

オリンピックが中止になるとさすがに決行できないだろうけれど、オリンピックが開催できるなら、フェスで海外のアーティストを呼んで有観客で開催することも現実的に検討ができるのだろう。

ただその「できる」にはリスクも含まれている。9月では観客側のワクチン接種が完全に間に合わないし、ワクチンを接種していない観客を呼んでいつものSUMMERSONICのような規模のフェスを開催するのがリスクになることは明らかだ。緊急事態宣言下において店舗規模に応じて時短・休業要請がされているように、イベント規模が大きくなると、大人数の観客が交わることになる。間違いなくリスクだ。

この声明は「このまま何もせずに立ちゆかなくなってしまうなら、もうリスクを負ってでもやるしかない」という飲食店の考え方に近いのかなと思う。

正直な気持ちとして、開催を手放しには喜びづらいと思っている。オリンピックは国が総力を挙げて感染対策をしようとしているけれど、同じレベルの感染対策は民間で実施できない。招待したアーティスト達をコントロールすることは非常に難しいだろうし、観客のワクチン接種状況や行動のトレースも困難だろう。規模はもちろんオリンピックより小さくなるとはいえ、オリンピックよりリスクが高くなる可能性がある。

イギリスは政府の取り組みで段階を踏んでフェスを解禁してきた経緯がある。日本もこうあって欲しかった。日本にとってはその段階を踏んでのイベントがオリンピックなのかもしれないが、もしオリンピックが開催されたとして、その経験や知見はオリンピック後に他のイベントに対して活かされるだろうか。オリンピックが開催できたのなら他のイベントもできるはずだ! という旗印に使われるだけなのだったら、オリンピック後のコロナ対策に大きな影を落としかねない。

20210601

緊急事態宣言が緩和されて、休業していたいくつかの店舗は平日だけ開店するようになった。宣言自体は継続して発令されており、出歩かないようにすべきなのは変わらないので「緊急事態宣言が緩和」という表現は適切ではないのだけれど、街の雰囲気からは緩和を感じる。

駅前の百貨店が開くようになったのは大きい。いつもの日々が戻りつつあると、多くの大阪の人は感じたと思う。

ただ平日の昼だけ店舗が開いても、店舗を利用できるのは平日に休みが取れる人だけだ。休日と平日で街の雰囲気も変わるのだろう。平日に休みを取れることが特権になるかもしれないな。土曜の休日を水曜に振り替える会社が出てきたりしたら面白い。

20210602

くるりのライブに行ってきた。

チケットを買ってからコロナ禍の状況は悪化するばかりで、恐らく延期になるのだろうなと思っていた。新譜の「天才の愛」が正直そんなにハマらなかったし、ファンファンの脱退もショックだったので、あまり期待しないでライブに行ってきたけれど、終わってみると大満足だった。

新しい体制のくるりは、剛直なバンドサウンドだった。音色がモノクロになった代わりに、荒々しさが戻ってきていた。特に光っていたのはドラムの石若駿で、やたらにややこしい手数のドラムを安定して叩いているのには本当に驚いた。どれだけ暴れても芯が崩れない安定感のあるドラムのおかげで、ギターの二人が全力で演奏できていた。この今のバンド形態に欠かせないドラム演奏だったと思う。

そしてくるりの歴史の長さは伊達ではなかった。体制が変わっても、その新しいバンド形態に合った曲が既にストックされているのが、くるりだ。新旧の曲のストックから今の体制にあった曲をピックアップできる、そのくるりのキャパシティに驚いた。

毎年の音博で色々な形態でくるりの演奏をしていた経験が、柔軟なバンド形態の変化に生かされたのかもしれない。過去の体制の演奏はもう聴けないのだなという寂しさはもちろんあるけれど、一期一会だからこそ素晴らしい、と思い直すことができたライブでもあった。当たり前に通えていたライブのありがたみを感じた今だからこそ、その一期一会がより心に響いたのかもしれない。

20210603

ランニングを無理矢理習慣にしてみると、ペースが遅くなった代わりに安定して走れるようになった。足が程良く疲れているくらいが丁度いいのだなと思う。今のところはランニングを習慣付けてカロリーを消費することが目的であり、速く走ることは目的としていない。積極的に回数を増やしてからペースアップは気にしたらいいのだ。

外を走っているときの、スマートフォンなどの画面を何も見ることができない時間を新鮮に感じる。ジムでランニングしている時には何かしら動画を見ていたので、無心に長距離を走る体験は久々だ。一日に少しぐらいはこんな時間があってもいいのかなと思う。

20210604

金曜の仕事が終わっても開放感がこみ上げてこない。平凡な週末を過ごす日々が続いたせいで、土日を喜べなくなっているのかもしれない。平凡な日々にストレスが溜まってきていて、喜びを感じる余裕がなくなってきているのだと思う。

これまでどんな週末を過ごしていたのかも、徐々に思い出せなくなってきている。ストレスがない過去の日々では、どんな週末を過ごしていただろうか。同じように家でゴロゴロと過ごす週末だってあったはずなのに。

この一年強での生活の変化が大きすぎることが、少しずつストレスとして積み重なってきているのだと思う。コロナ禍によって生活の変化を余儀なくされたとき、ただ閉じこもるのではなく、これを機会に色々なことを始めようと考えたのだけれど、それで生活を変化させ過ぎてしまったのかもしれない。

まず転職したことがストレスになっているのは明らかで、それは徐々に慣れていくしかない。だけれども、それ以外の生活の変化はもう少し穏やかにしてみてもいいのだろう。気分転換に趣味を増やそうとしたつもりでも、その趣味がストレスになってしまうことだってある。

20210605

オリンピックの話を日記に書くのにうんざりしているけれど、書かざるを得ない。

「我々はスポーツの力を信じて今までやってきた」から医学からの言葉は受け入れられない、といったような趣旨の発言をオリンピックの担当大臣がするのは最悪だ。アスリートにとって最悪だと思う。コロナウイルスに打ち勝つためにスポーツができることなんて、医学以上のものであるはずがないのだ。

アスリートもそれは分かっている。アスリートだってもしコロナウイルスに感染して大事になった場合は、医学のサポートが必要なのであり、医学・科学のサポートの上で実現できるのがオリンピックなのだ。安心・安全の上で成り立つオリンピックというのは、医学・科学が土台であるべきではないのか。医学的な安全を最優先にしてオリンピックを開催する気がない、と大臣が発言してしまったようなもので、うんざりする。オリンピックの開催が最優先です、その上で国民の完全を守ります、と優先順位を明言したらいいのに。

これがもし「スポーツ」ではなく「音楽」の力でといった文脈で発言されたらゾッとする。きっとアーティストからは大ブーイングが何かしらの形で上がっただろう。

20210606

積んでいた本を読んだ一日だった。

明日は健康診断があるのだけれど、それ以外の時間を有給休暇にしたおかげで、気持ちに少し余裕がある。休みがあると気持ちに余裕ができるということは、やっぱり心の奥底では休日を欲しているのだ。良かった。ストレスは結局、時間に解決してもらうしかない。

2021-Week21 動物扱い/風邪と通院判断/地域や人種ではない/どうやってやるのか/ランニング/赤い公園ラストライブ/オリンピックカルチャー/ファーザー

20210524

選手村にゴムを準備するの、恒例みたいになっているけれど選手達は怒らないのかなと思う。動物扱いか。

さすがに「楽しいパーティー会場を東京に準備しました! 世界各国の選ばれたみなさん、ワクチン接種して是非ともご参加下さい」というノリで開く大会は、どの国でも今必要としていないだろう。

20210525

風邪を引いて一日寝ていた。さすがに体調が悪くなるとコロナウイルス感染の可能性を考えてしまって不安になるし、無理して仕事をするよりも寝て一回リセットしよう! と思う。

ただこういう体調が悪い時に病院に行くべきかはどうかは少し迷う。風邪ぐらい家で治せばいいと思うけど、万が一のときに通院履歴があった方が助かる可能性が高くなるのではとも思うし、体調悪いのにわざわざ通院してコロナウイルスへの感染リスク高めるのも危険だと思う。コロナ禍における一人暮らしのリスクは判断を惑わせる。結局、通院しなかった。


神戸に住む親からワクチン接種の予約が取れたとのLINEが届いた。大規模会場で来週にも接種ができるらしい。神戸は医療崩壊が進んでいる地域というイメージだっただけに、迅速に手配ができたことに少し安心した。ありがたい。

20210526

IOCの委員が開催について色々と発言しているけれど、これだから欧米の白人は! とは決して言いたくない。欧米だから、白人だから偉そうにしている! みたいな認識に引きずられたくない。開催にたいして懐疑的な眼を向けているのもその欧米のメディアだし、発言と人種は全く関係がない。役職の高い人が資本主義的な立ち位置で物を言っているだけで、地域や人種に結びつけたくはないなとは思う。


「できるできないを考えるのではなく、どうやってやるのかを考えろ」とは若い頃によく言われた。

そしてそう言われてやってみたことは、だいたいできた。だからその姿勢は正しいと思ってはいた。ただ今になって思うのは、そのできたものが本来の目的を達成できていたのかどうか、ということだ。

あらゆる手を使ってどうやってやるのかを考えたときには、ゴールを動かしてできたことにする、というのも選択肢の一つになる。仕様を一部変更したり、範囲を縮小したり、それが本来の目的のためであれば良い。ただできたことにするために変更した結果、目的まで変更してしまい、何のためのものなのか分からなくなってしまっては元も子もない。

目的が変更されてしまった結果、「表向きの目的」が引っぺがされて「身も蓋もない目的」だけが残ってしまう、ということだってあるだろう。できたことにしたものが、本当に「できて」いたのか、達成したい目的がちゃんと達成できたのか、ということを今まで真面目に振り返ってこなかったなと反省する。

20210527

夜にまたランニングにチャレンジしてみたけれど、どうもやっぱり五キロ持たない。以前は「明日に響かないように五キロにしておこう、そのかわり五キロを全力で走ろう」と思っていたのに、今は全力でも五キロに届かないのだ。コロナ禍でジムを辞めてランニングの習慣が無くなって、明らかに心肺能力が低下している。

マスクで十分に呼吸ができないからすぐに限界になるかもしれないな、走り慣れていないコースだから疲れがすぐに溜まるのかもしれないな、と理由を探したくなるけれども、誰かに言い訳をする必要はないし、まっとうな言い訳を思いつけたとしても体力が戻るわけではない。長い距離が走れなかろうが、途中で歩くことになろうが、身体を取り替えることはできないので、この身体でできるベストを探っていくしかないのだ。と思いながらランニングウェアを洗濯機に投入する。

20210528

赤い公園のラストライブを観た。やっぱり赤い公園津野米咲が中心のバンドだったのだなと思った。メンバーが津野さんを尊敬しているからこそ、津野さんがいない状態で活動を継続できなかったし、津野さんが作った曲をライブで披露することなく解散することができなかったのだと思った。

ラストライブは避けられないことだけれど、避けられないならせめてスペシャルにやろう、スペシャルにやらなきゃ一回で幕は下ろせない、という気持ちで構成されたライブだった。こういったスペシャルなラストライブは東京で開催されて、関東圏に住んでいないと見られない、ということがありがちだったけれど、配信でも見られるようにしてくれたのはありがたかった。ライブ現場と配信で見るライブは違うけれども、今後もこういったライブ配信の取り組みがあってほしいと思う。

それにしてもジェットコースターのような曲ばかりだ。これは赤い公園のメンバ-しか演奏できないだろう。この楽曲の数々がこれから演奏されることがないのは、残念だ。

20210529

オリンピックのせいでコカコーラ製品を忌避してしまうようになっている。いよいよ面倒くさい感覚にたどり着いてしまった。

正直なところ、オリンピックがここまで世間から忌避されるとは思っていなかった。オリンピックは中止すべきだという声を対面でも普通に聞くようになった。

同じスポーツでも、プロ野球Jリーグは開催して欲しいけれど、オリンピックは開催して欲しくないと思っている人は多いだろう。国内リーグと海外を大きく巻き込んだ大イベントは規模が違うから、判断が分かれているのかもしれない。けれども開催の是非が問われているのがオリンピックではなくサッカーのワールドカップだったら、世間はどんな反応だっただろうか。

サッカー日本代表の活躍を日本で観たいと思う人は、オリンピックより多いと思う。代表チームの活躍や代表選手のサクセスストーリーを理解しているから、ファンはワールドカップまで追いかけて活躍を見守りたいと思う。物語の先を確かめたいと思うのは自然だ。

そう考えるとオリンピックの不人気は、実は多くの人がオリンピックに思い入れを持っていない、ということを表しているのかもしれない。オリンピックのどの競技に興味がありますか? と聞かれて回答に困ってしまう人は意外に多い気もする。コロナ禍ではなかったなら、今頃テレビでは出場選手の歴史などが特集されていて、みなオリンピックへの期待に胸を膨らませていたのかもしれない。ただ本来は、オリンピック関係なく以前から応援していた人たちが、オリンピックで活躍するのを見て喜ぶのが自然なのだろう。駅伝やマラソンをよくテレビで観る人が、代表選考会などを追っかけた上で、オリンピック本番を楽しみにしている、というのは理解ができる気はする。

オリンピックは、日本のカルチャーとして根付いていなかったということだと思う。プロ野球もサッカーも、文化として根付いたからファンに支援されているし、他のスポーツでも高い認知を得ている種目はある。ただオリンピックというムーブメントは、その影響の大きさに対して支持する人が、実際はかなり少なかったということだ。

20210530

「ファーザー」を観た。つらい映画だった。

老いによる衰えは誰にでも起こり得ることだ。衰える立場になることも、衰える人を介護する肉親になることも、どちらも現実的に自分の身に降りかかる可能性がある。

介護する肉親の場合、介護に疲れてしまう前に外部のお世話になることで負担を回避することができるし、それが現代では合理的であるとされている。ただその選択肢は、衰える人にとってどのように見えるのか。この映画が示すのは衰えつつある父とその娘の、ある一例だ。

老いは、ただマイナスの出来事だ。そしてそのマイナスは回復することなく、少しずつ重荷となっていき、いつかは一人で自立できなくなる時が来る。自分一人で背負えなくなった老いのマイナスは、他の誰が背負うべきなのだろう。

老いは自業自得であり、肉親であっても誰かに負担をかけるべきではない、外部に背負ってもらうべきだ、というのが現代調の考え方だ。しかしながらこの映画は、その「自業自得」とはこういうことですよ、と私たちに老いる視点を突き付けてくる。その一方で、背負う誰かの苦労も同時に突き付けてきて、安易には正解のメッセージを提示し、観客を安心させてくれない。

老いは、ただマイナスの出来事だ。その対応に明解な正解はない。だからつらい。しかし当事者や関係者が老いを理解することで、そのつらさを軽減することはできるのかもしれない。この映画はその理解の一助になり得る映画であり、観る価値があると思う。

2021-Week20 授業への影響/リモートワークの罠/婚約報道/立場/政治家の厚顔ぶり/ランニング/オリンピックは撤退戦/土日変更

20210517

平日なのに隣に住んでいる家族の子供が昼間にずっと縄跳びの練習をしている。休校なのだろうか。病気で休んでいるのなら縄跳びはしないだろうから、きっと学校の事情で休みなのだろう。コロナ禍によって学校の予定が何度も突然狂わされてしまっていて、生徒への影響はきっと大きいだろうなと、縄跳びの音を聞きながら何となく想像する。

学校での授業について行けず、テストの点数が信じられない位下がった高校生の頃を思い出す。授業の内容が理解できなくなるのは、何かふとしたタイミングだった。授業を休む必要があったり、授業中に猛烈に眠くなってしまったり、宿題や予習を忘れてしまったり、何か小さく躓いた時に上手くリカバリができないと、授業について行けなくなる。内容を見失った授業に追いつくのは大変だし、分からない授業を聞くのも苦痛だ。あの時はテスト前に一夜漬けして、なんとか見栄えがする点数に取り繕って卒業するので精一杯だった。

コロナ禍ではそんな躓きが沢山あっただろうし、そこで授業を見失う生徒が続出していたとしても、助ける先生のリソースにも限界があるだろう。ワクチン接種が進んでコロナウイルスの感染者数が収束してきたとしても、学力の低下などの影響はきっと長く尾を引く。この問題が顕在化するのはもう少し先だろうけれど、「基礎的な学力が身に付いてないコロナ世代」みたいな言い方がされないような未来になって欲しい。

20210518

三ヶ月ぶりに体重を測定したら、三キロも増えていた。自身の最高体重だ。これがリモートワークの罠か!

そもそも三ヶ月前の体重もベストから三キロ多かったのだ。そこからさらに三キロ増なので、これはさすがにまずい。五キロの米袋の重さを想像して、その重さが自分の身体にまとわりついていることにゾッとする。

リモートワーク中心になってからも結構外を散歩していたつもりだったのだけれど、Apple Watchに促されて30分歩くような程度ではカロリー消費が追いつかないということなのだろう。二月から飲み始めたコレステロールを抑える薬の影響もあるかもしれない。整腸剤を飲むようになったことも影響していそうな気はする。ただ健康のためにやっていることを止めるのは違うと思うので、今の習慣に付け加えて、何か新しい工夫をするようにしたい。

久々に食事のカロリーやPFCバランスのことを考えることにした。原因が間食なのは明らかなので、ダラダラと間食しないように気をつけよう。最近は間食を充実させようと思ってパンを買ったりしていたのだ。甘いパンを。これは一番に止めるべき習慣だ……。

20210519

星野源新垣結衣が結婚! と聞いてつい喜んでしまうのは、やっぱりあのドラマに感情移入していたからだろうな。実際にドラマの登場人物のような生活を送っているわけがないにせよ、フィクションであるドラマの続きがノンフィクションで見られるというのは、なんだか夢が現実になったような気持ちにさせられてしまう。

星野源新垣結衣を選んだというのも、いかにも星野源らしい選択だなと思った。ポップへの憧れを最大限に結実させたような相手だ。

なんとなく星野源のソロよりSAKEROCKを聞きたくなったので、今日はSAKEROCKを聞く。

20210520

オリンピック出場選手は、「是非ともオリンピックを開催して欲しい」と思っているのならそう言って欲しい。もちろん戸惑っているなら、そう言えるべきだとも思う。

野球やサッカーのプロ選手は自身の活動の場が続いて欲しいと言えるだろうし、映画や音楽や演劇の関係者も活動の場が失われて欲しくないと言っている。飲食店だって百貨店の関係者だってそうだ。彼らはその彼ら自身の立場での主張がある上で、客観的に開催できるのかどうかを考えて対策をしたり、行政からの指示に従うなどで開催を諦めたりしている。このように同じ立場で苦労していることが分かっているから、お客は理解するし、ファンは支持している。

オリンピックに出場した選手へのインタビューで、本当は開催して欲しくないと思っていた、みたいな話が出たらきっと白けてしまうだろう。何のために開催を強行したんだ、と思う。侮辱とすら感じるかもしれない。皆さんのご協力のおかげでオリンピックが開催できました! ありがとうございます! ぐらいのことを宣言するつもりでやって欲しい。せめて。

20210521

LGBT新法に対する自民党の会合の内容を知ってまず思うのは、折角超党派で法案を議論してきたのに、時代遅れの認識レベルで反対してくる政治家の厚顔ぶりだ。

部を跨いだプロジェクトとして新しい取り組みの検討を実施したものの、いざ自分の部署に検討結果を持ち帰るとなにもその取り組みについて勉強していない人が自身の認識で却下してくる、といったことは民間企業でもあると思う。(専門家かどうかはさておいても)時間を割いて議論してきた人たちの意見より、自身の意見が優れていると考える。傲慢だ。これは組織の人間として建設的な検討ができるかどうかの資質が疑われる態度だと思う。専門家の意見を聞き入れて緊急事態宣言の適用範囲を柔軟に変更した、首相の態度を是非とも見習っていただきたい。

また政治家としても、なぜこういった議論が為されているのかという背景を理解していれば、時代遅れの認識レベルでの意見がまず口を突くということはないはずである。選挙で選ばれたからと言って、その議員の今後の判断が全て肯定されるわけではないということを理解して、議論の当事者の事情を理解する努力をしてほしい。なぜ「政治家に理解してもらわなければならない」と市民が一方通行に努力することになってしまうのだろうか。

啓蒙活動をしている法務局もさぞかしご立腹だろう。行政の方が専門的に活動をしているし、素人がやってる立法に権限を持たせる必要ないんじゃないのか? どうせあいつら何も責任取らないだろ? という認識になってくる。

所詮政治家は頭の固い素人だから認識の浅い発言をするのもやむを得ない、裸の王様なのだ、とみな内心思ってしまっている。だからこんな迂闊な発言をしても謝罪もせずにいられるのだ。

掘り下げていくと「三権分立選挙制度の限界」ということになってしまいそうだけど。選挙では議員を選ぶのではなく、政策を選ばせて欲しいとつくづく思う。


体重が増えたこともあって、時速十キロ維持のペースで外のランニングをしてみたら、四キロも持たなかった。とりあえず五キロぐらいなら余裕だろうと思ってコースを決めたのに、最後は息切れしながら歩いて家まで帰った。筋肉も肺も悲鳴を上げている。これは明日筋肉痛になるな。

やっぱりジムで運動したい。コロナ禍になってジムに通わなくなって一年、めっきり体力と筋力が落ちている。家でトレーニングしても、ジムほど真剣なトレーニングにはならない。

ただ大きいジムでのトレーニングを再開するのはさすがに気が引けるし、24時間ご自由にというコンセプトのジムも衛生面で安心できない。比較的安心できそうなプライベートジムは値段が高い。ジムを辞めるまでは高い月会費だと思っていたけれど、あれは妥当な価格設定だったのだと今更ながら思う。

20210522

筋肉痛が来た。これは今日はランニング無理だな。久し振りでも速く走れるなと走り始めは感じていたけれど、筋肉がついていけなかった。感覚で何となく走るのは案外危険だ。身体への負担を意識してランニングしなければならない。


何となくオリンピックはやるのだろう、という雰囲気になるのかもしれない。どこまで骨抜きにした上で開催できるかを、必死で考えているのだろう。選手団と市民を分断して実施する時点で、日本にとって日本でやるメリットなんてほぼないのだけれど、日本でやったという既成事実を残すべく努力をしている。やっているのは戦線を縮小していく撤退戦なのだけれど、撤退しているとは誰も言えないので頑張って戦っているふりをしている。仕事とは言えども、関わっている人は消耗して大変だろう。

もしオリンピックを開催してそのときは盛り上がったとしても、オリンピックが終わったらまた今の状況が続く、特にワクチン接種も進んでいない日常に戻ってしまう。あの高揚したオリンピックはなんだったのだろう、オリンピックに費やしたリソースがあれば今頃は、という話がきっと出てくる。少なくともワクチン接種の段取りについては、明らかにリソースが足りていないのだ。オリンピックが終わりスポンサーの義理もなくなったマスコミも、開催した判断を叩くことに躊躇はなくなるだろう。

また今の世界の世論からして、オリンピックを開催したとしても「日本の国力によってオリンピックが無事開催できた、素晴らしい」とはどの国も酌み取ってくれない。無理矢理開催することにしたのだな、というだけだ。客観的にはIOCと日本政府が強権的に開催したように見えるだろうし、民主的ではない判断が下されたと受け取られるだろう。

日本はまだワクチン確保の目途が立っているけれど、ワクチン接種の目途が立っていない国からすると、オリンピックの開催は先進国の傲慢であるように見える。「コロナウイルスに打ち勝った証としてのオリンピック開催」だなんて開催中に国際的な場で誰かがスピーチしてしまったら、世界の分断に繋がる可能性だってある。ミクロな点では日本での海外の選手団の素行が悪かった、といった話が出てきて外国人排斥に繋がることもあり得る。とりあえず形だけでも開催したらいい、というものでもない。

20210523

もっと筋肉痛が来た。昨日より今日の方がキツい。

買い物をするために夕方にでかけたものの、土日の営業時間を考慮していなかったおかげで空振りしてしまった。

土日は混雑が予想されるから、営業を止めたり平日より時間を短縮したりしているのだ。それならそもそもコロナ禍では土日休みに固執する必要はないのかもしれない。

ただ在宅勤務が普及しないのは「上司の監視ができない」という理由だろうから、土日に休みたい人の意向も踏まえると、在宅勤務ができないのなら土日に勤務して平日を休めばいいとは言えないのだろう。難しいな。