20210412 コロナウイルスと生活改善/正しさ

久々に最寄り駅以外の駅、京都に出かけた。最近は在宅勤務を続けていたので、大きな駅に出かけるのは久し振りだった。わざわざ出かけた自分を棚に上げて書くのだけれど、平日の夜なのに京都は人出が多く、意外だった。去年にコロナウイルスの感染者数が増えていたときには、もっと街は閑散としていたように記憶している。多くの店舗はいつも通りの営業時間で開いているし、会社から退勤した人の姿も多く見かける。旅行客を見かけない以外は、いつもの京都が戻ってきているように見えた。外出する人が増えていることを「自粛疲れ」と表現することがあったけれど、人が多く行き交う駅前は活気があって、疲れという言葉のイメージからはかけ離れている。閑散としている街の姿を見て安心したいのか、混雑している街の活気に安心したいのか、私の気持ちの持ちようも定まらなかった。

感染者の増減に応じて対策が強められたり弱められたりして、恐らくこの社会には感染を封じ込める気がないことに私たちは気付いている。いつ一般的にワクチンが接種できるようになるのかも分からない、終わりの見えないトンネルを歩き続けるなかで、その日々の生活を「改善」したいと考えるのは自然なことなのだろう。延期という判断ができなくなっている社会では、中止か決行の二択で悩むしかない。そうしてみな自分ができる範囲で活動を中止し、自分の判断で活動を再開しているのだろう。

医療従事者からすれば感染者が増えているのに活動し続けるなんて、馬鹿げた話だろう。医療のキャパシティが逼迫し、それ以外の病人ですら十分な治療を受けられなくなってきている状況においては、病人の関係者だってみな自粛しろと感じるだろう。社会が先導されなくなると、各々の立場の意見がそのまま衝突してしまう。何が社会的に正しいのか不透明なこの状況においては特に、何が正しいのかについてよく考えさせられる。誰かの言葉を盲目的に信じることができなくなっている今、政治的には無党派層がどんどん増えているのだろうな。