20210410 オリンピックが引き起こす断絶

聖火リレーが開始され、各地でスポーツのスターや有名人が聖火のバトンを繋いでいる。その一方でコロナウイルスの感染者数は各地で増加していて、「蔓延防止等重点措置」が施行されてもどれだけ抑制できるかは分からない。ディスプレイの向こうで行われているオリンピックへの準備と、身近で気をつけなければならない日々の心がけとの違いが大きくなっていき、自分たちの普段の身の振り方に客観的な基準が設けられなくなっている。

コロナウイルスの感染が拡大すると、オリンピックの開催は難しくなるだろう。それが明らかであるにも関わらずコロナウイルスの感染が広がっているのは、多くの人にとってはオリンピックの開催よりも大切なことがあるということだ。今でも何らかの形でオリンピックが予定通り開催できると考えている人は少なくないとしても、それは状況を楽観的に考えていたり、無観客での開催など規模を小さくする対策を加味するからであって、オリンピック開催のために自分たちの活動を最大限制限してもいいと考えている人は少ないだろう。誰かにとってオリンピックが大切なように、他の人たちは日々の仕事が大切だったり、ゴールデンウィークの旅行の予定が大切だったり、親友や同僚とお酒を飲んだりすることが大切だったりする。

不要不急の外出は控えるように言われる一方で、なんとかして旅行を斡旋しようとする施策が出たり、オリンピックの開催準備を今も進めていたりする。感染拡大と経済維持のバランスによってこのような判断がされているようだけれど、みな本音を言えば、自分に関係する経済活動は維持したいし、自分に関係ない経済活動で感染拡大に影響しそうなものは規制してほしいと思っている。オリンピックの開催準備がこのまま進められるのなら、同じように自分の活動が制限される理由はないと感じるのも無理はない。オリンピックに参加する選手がいるように、春からの新しい生活で何かに参加したかったり、何かのイベントに参加することを楽しみにする人がいる。その活動に優劣はつけられない。

しかし実際にはコロナウイルスの感染が拡大して、みな外出は極力控えるようになりつつも、オリンピックは開催する方向で進んでいくのだろう。もしオリンピックが現在の予定通りに開催されたとして、コロナウイルス感染に怯えながら外出を控える多くの人がその光景をディスプレイ越しに眺めるとなると、そこには格差を感じざるを得ないだろうし、出場している選手とそれ以外の人との断絶が広がってしまうだろう。

選手の活躍に心躍らされることはあるだろうけれど、その活躍がコロナウイルス感染を防いでくれるわけではない。以前から応援している野球やサッカーチームの活躍には勇気づけられるかもしれないけれど、よく知らない選手を同じ日本人ということだけで応援していたとして、その選手が活躍できなかったら罵声を浴びせてしまうことだってきっとある。オリンピックを開催するために自分たちが何らかの代償を支払っていると感じてしまったら、活躍できなかった選手への当たりも強くなるだろう。選手村でクラスターが発生してしまったときのバッシングだって容易に想像できる。参加する選手の社会的リスクも非常に高い。

この状態でオリンピックが開催できたとしても、スポーツ界が失ってしまう「感情」は大きいように思える。ただそれは、どのイベントにおいてもそうであり、ワクチン接種が進まない限りはこの状況が続いてしまうのだろう。