2021-Week24 人生を選べ/ドラマチックではない人生/責任の取り方/翻訳リソース/クックドゥ/資質/党と政権/冷める趣味/TOPANGA

20210614 人生を選べ

減量のためにランニングを週に二回ほど続けているけれど、なかなか体重に反映されてこない。さすがに始めてから一ヶ月ぐらい経たないと効果は現れないと思うけれど、若い頃はもう少し簡単に体重が減ったのになと思ってやきもきしてしまう。


先週に受診した健康診断の結果が送られてきた。内臓脂肪が少し多いらしい。

内臓脂肪を減らすには運動が必要だし、食べるものにも気を遣わなければならないのだろう。脂肪が増えているのはやっぱり、去年の春にジムを辞めたことが大きく影響していると思う。あとコロナ禍で外食は控えるようになったけれども、家でご飯を食べるときでも、食べ過ぎたり油の多い料理を選びがちなことが影響しているのだろうな。

一人暮らしの影響なのかもしれない。誰かと同居すればヘルシーなご飯をその誰かに作ってもらえるということではなくて、一人で生活していると、生活を自分一人で全て判断してしまうので、どうしても生活に偏りができてしまうのだ。自分に対しては甘くても、誰かの目線があったり、誰かのためになら節制できている、かもしれない。

若い頃は不安定な生活でも健康を維持できていたけれども、年齢を重ねると生活と健康が直結してくる。若さだけで維持できていた健康を、若さがなくなったときにどう維持できるのかは、もちろん経験則で分かるものではない。若い頃の生活に戻せば健康が維持できるわけではないのだ。

一人で老いるということを、今の年齢になるまでにもう少し真剣に考えるべきだったのかもしれない。「結婚する」という選択をしなかった人生だと思っていたけれど、その「結婚する」はオプション選択ではなく、「一人で生きる」という選択だったのだ。

一人で生きること自体が間違いだとは思わないけれど、それは自身があえて選択した結果としてあるべきなのだろうな。

20210615 ドラマチックではない人生

大豆田とわ子と三人の元夫の最終回を見た。

このドラマの思い切ったところは、分かりやすいストーリーを視聴者に提示しなかったことだ。こんな最終回になるとは多くの視聴者が予想できなかっただろう。

第一話を見た人の多くが、最終的に主人公のとわ子は誰と結婚するの? 何やかんやあって誰とも結婚しないのかな? という点が気になったと思うけれど、このドラマはそれをメインストーリーには据えなかった。ストーリーからの要請で人生が変わった登場人物はいたけれど、主人公を巡る恋愛や結婚に関しては、分かりやすいストーリーのパターンに当てはめなかった。

結婚こそが最上の幸せであり人生のクライマックスである、という結論は提示しなかったけれど、人生の大きな決断であり縁ではある、ということを示したこのドラマ。それは自由な生き方への肯定であると視聴者は捉えたと思うし、自由に生きた人生を愛していこうというメッセージであると視聴者は感じ取ったと思う。だから色々な立場の人に支持されたのだ。

こういったドラマが地上波でもできるようになったのだ。地上波への注目が弱まってきた今、お約束に縛られない番組作りができるようになってきたのかもしれない。

20210616 責任の取り方

オリンピックの開催の是非に関して、判断をした政治家は責任が取れるのか? と疑問視する意見をよく聞くけれど、どう責任を取って欲しいのか? という具体的な部分は人によって差があると思う。

会社員の場合、自分の仕事に責任を持って進めるということは、達成できなかったら役割や給与に影響しますよということを意味している。

ただ政治家にとって責任を取ってもらいたいというのは、達成できなかったときに給与を減らすことではないと思う。政治家はそもそも給与のために働いているようには見えない。「役職を降りる」というのは政治家の責任の取り方の一つのようには見えるけれど、その政治家が役割を降りたところで、私たちの生活が良くはならない。悪くなり続けることは止められるかもしれないけれど。

そもそも、達成できなかったらデメリットがあるから頑張って達成してくれ、という考え方自体、あまり政治家に対して要求したいことではない。政治家の判断によって組織に大きなデメリットが発生してしまったら、それは政治家の処遇で賠償できるものではないのだ。

「私が責任を取るから進めよう」というのは格好良い口上だけれど、本人がそう思っても責任が取れないことだってある。判断する人間の責任の取り方が組織にとって納得できるものなのか、それが大切だ。組織がその責任の取り方に納得ができないなら、組織が判断に納得ができるよう説明するべきだ。ただオリンピックについては、その判断する人が誰なのかすら、有耶無耶になっているのだけれど……。

これは政治家に限ったことではなく、会社員においてもそうなのかもしれない。役職が上がっていくと「私が責任を取る」とヒロイックに言いたくなりがちではあるけれど、その言葉が何を意味するのかをもう少し慎重に考えるべきなのだろう。実際のところ、達成基準を有耶無耶にできそうな場合にのみ「私が責任を取る」と言いがちではあると思う。

20210617 翻訳リソース

仕事を英語で進める機会が増えて、すっかり仕事ができない人になってしまった。英語を使うことに脳のリソースのほとんどが割かれてしまって、仕事の本質的な部分に脳のリソースを投資することができていない。英語を使うことで脳がフリーズしそうになってしまうと、会議でも内容を追うだけで精一杯になってしまったり、うっかり的外れなコメントを発言してしまったりする。中途半端に英語でコミュニケーションが取れるようになったせいで、むしろ対外的な盆暗感は増してしまった。

近い将来には英語へのリアルタイム翻訳が実現できるのではと以前は思っていたけれど、どうやら私が現役の頃には難しいと思っていた方が良さそうだ。GoogleやDeepL翻訳は優秀だけど、リアルタイムであの制度の翻訳ができたとしても、まだ円滑なコミュニケーションは達成できないだろう。英語の勉強をして、英語に脳のリソースをできるだけ割かないようにしなければならない。これは自力で越えなければならない壁だ。

20210618 クックドゥ

クックドゥを使って麻婆豆腐を作っているときに、「クックドゥは手抜き」という、以前ネットで盛り上がった話を思い出した。もし誰かにこの夕飯を作っていたとして、クックドゥは手抜きだとその人に言われたら相当ビックリしただろうな。

そもそも、クックドゥはそんなに手抜きにならないのである。調味料を混ぜる手間が省けるだけで、食材を揃えてカットして調理して、という工程は必要だ。普通に豆板醤や甜麺醤を使って麻婆豆腐を作ることもあるけれど、調味料を計って混ぜるのがクックドゥになったところで、それほど手を抜けていない。スーパーの惣菜コーナーで調理済みのものを買った方が余程手を抜けるだろう。

クックドゥを使っても味見はして調整するし、作っている側からすると手抜きしている感覚がそもそもないと思う。もしこれを手抜きだと言われると、こいつ料理したことがあるのか? と思ってしまいそうだ。もちろん「本当に『料理』している人」からすれば間違いなく手抜きなのだろうけれど。

結局、その仕事のことをそんなに知らない人に口出しをされるのが嫌、という感覚なのだろうな。

20210619 資質/党と政権

「専門家は『リスク評価』をして政治家は『リスク管理』をすべきである」という言説を読んで改めて、政治家には何を期待すべきなのだろうかとまた考えるようになった。

政治家は専門家ではない、組織の管理をするのが仕事であるというのは、なるほどそうなのだろう。ただそんなスキル要素、例えばリスク管理の実績で候補者に投票しようと思ったことは今までなかった。

いやしかし、そもそも今までどういった要素で候補者に投票していたんだろうか? 所属する党? 人柄? 当選回数? 議員としての役割?

政治家にも客観的に資質を評価できるような基準が必要だったりするだろうか。そもそも平常時と有事では政治家に問われる資質が異なる、というのも今の制度が抱える課題ではあると思う。


多くの人が今の与党に引き続き政権を取っていて欲しいと思っている気はする。無党派層においては消極的にそう考えているケースが多いだろ。これはこのコロナ禍において、第一野党から建設的な問題提起ができているようには見えないのが大きい(個人の感想です)。

ただ多くの人が今の与党を許容できたとしても、今のトップには納得していないと思う。党への支持と、内閣への支持を分けて意見ができるようになったら状況は変わると思うけれど、国民が内閣を直接的に選ぶことができないので、「党=内閣」という考え方になりがちなのだろう。党の内部判断に国民の意見を通しづらくなっていることが、内部腐敗に繋がりがちなのだと思う。

アメリカの大統領選みたいなことをする方が、国民の納得感は高いのかもしれない。ただ国民の投票で決まることの欠点も、アメリカを見ていれば分かる。難しい。

20210620 冷める趣味/TOPANGA

映画を観に行こうと思ったけれど、見たかった映画と映画館の上映予定がかみ合わなかった。いつの間にか映画館での上映が終わってしまった映画もあって悩ましい。ステイホームと映画館のタイトな上映スケジュールは、相性が悪いとつくづく感じる。見逃しても運が悪かったと諦めるしかないだろう。

緊急事態宣言下で、観られないかもしれない新作映画をチェックし続けるのは難しい。関西に住んでいると関東でやるライブ予定をチェックしないように、観られないかもしれない映画の予定はチェックしなくなる。楽しみにしていた映画を見逃すショックが薄く積み重なってしまうからだ。

こうして趣味への興味が少しずつ失われていくのだろう。コロナ禍が収束したとしても、エンターテイメント業界が元通りにはならないと思う。一度冷めてしまった興味をもう一度沸かすのは、やっぱりそれなりのエネルギーが必要だ。

全く今日はやる気が出ない! ということで、一日家で過ごした。

夜はずっと格闘ゲームの大会であるTOPANGA CHAMPIONSHIPの本戦リーグを見ていた。展開が素晴らしかったし、その結果も素晴らしいものだった。格闘ゲームの大会が面白いのは、出場者に魅力があることが第一だと思うけれど、この大会においては運営のTOPANGAの功績も大きいと思う。

リーグ戦の組み合わせ順番にこだわったりするなど、普通の大会だと公平性を優先してやらないことを、この運営は最大限やるようにしているし、それが大会の盛り上がりに繋がっている。努力で公平性が維持できる部分は可能な限り公平性を優先した上で、演出と公平性の二者択一においては演出を取っている場合がある。それは大会に関係する誰もが、プロ格闘ゲームのシーンを盛り上げなければならないと理解しているからだ。

格闘ゲーマーの誰もが優勝を目指したいと思っている一方で、誰もが視聴者の印象に残るプレイをしたいとも考えているから、演出を優先することを当然のものであると受け入れている。信頼関係があるというのは素晴らしいことだし、それはシーンに長い歴史があるからこそだろう。