20210510 アスリートの権利/家の時間

アスリートはオリンピックの開催について、決まったことを受け入れるだけだという姿勢であるべきなのか? という問題提起を知った。なるほど。

もちろん参加予定であるアスリートのスタンスとして、オリンピックが開催されてほしいという個人的な気持ちはあるだろう。ただその意見とは別に、開催されるべきかどうかについても、参加する当事者として開催の是非を議論できる立場ではあるべきだ。

アスリートが開催に反対すべきであるとは思わない。むしろ自分が参加できる晴れ舞台なのだから、基本的には賛成の立場を取るだろう。「個人的には開催に賛成であり、もちろん主催者の判断通りに開催されるべきだ」「個人的には開催に賛成だけれども、社会的な状況を考慮すべきだ」「個人的には開催をしてほしいけれども、社会情勢を考えると開催は止めるべきだ」ということを主張できるべきだと思う。

もちろん意見を表明しないのも一つの主張だ。しかし「黙って主催者の判断に従うのがアスリートの立場であるべきだ」という考え方はアスリートの権利を矮小化している。アスリートを聖域化することで責任を奪ってしまうのは、お前たちは何も分かっていない、我々の娯楽のための人間だ、と言っているようなものだ。


家の近所のスーパーへの来客者が、六時頃に増えることに最近気付いた。六時に商品に割引シールが貼られるからだ。店員さんに付いていってシールが貼られる商品を吟味する数人の客。子供の頃にこういった光景をよく見たなと思う。

リモートワークをするようになって、行動パターンが子供の頃に近づいてきた。通勤含めて仕事に束縛される時間が減ったからだ。家から遠くで過ごす時間が増えることが大人になることだと思っていたけれど、こうして家の時間が増える生活に戻ってみると、どこにいても大人の生活はできるのだなと思う。