20210423 ノーモア「不要不急」

緊急事態宣言が出る。日曜日から適用されるらしい。先週末に緊急事態宣言の要請をすると報道されていたことから考えると、今まで緩やかに判断が進んだなと思う。ゴールデンウィークに活動制限ができれば十分であるということなのだろう。

「不要不急」というキーワードを強く突き付けられる日々がまた訪れる。私たちはこの一年間、自分の行動が不要不急であるかどうかを考えさせられてきた。自分の行動が自分にとって不要不急なのか、そして社会にとって不要不急なのか。

そして娯楽の多くは社会にとって不要不急とされて活動の自粛を求められたし、一般消費者向け以外だったり、対面を伴わなかったりする仕事の多くは不要不急とはされなかった。状況が長引くにつれ社会の眼が厳しくなり、その結果自粛と言えども、社会の物差しに従って判断することが求められるようになった。

日々の感染者の数字が増え続け、何が危険なのか感覚が麻痺しつつある状況の中、私たちは不要不急な活動やイベントを自粛し続けていた。多くのイベントは延期しても開催の目途が立たずに中止となり、この長いトンネルに終わりがあるようには思えなくなってきた。社会から不要不急とされて中止となったイベントがあり、そのイベントがなくても社会は動き続けている。愛していたはずのものが不要不急だったとして消え続けていく、私はそのことにうんざりしていた。

不要不急であるかが議論される度に、私たちは自身の行動を社会に判断された。そうして間接的に活動を狭められ続けて、もう一年が経った。不要不急の活動を自粛して、機械のように仕事をする日々が続いている。しかし先が見えない状況が長引くにつれ、不要不急であった活動こそが必要だったのだ、せめてそう訴えるべきだったのだと私は後悔するようになった。誰だって趣味や気晴らしはあるだろう。盆休みや年末年始、ゴールデンウィークなどの長期休暇をみな楽しみにしていたけれど、その長期休暇の楽しみは「不要不急」だっただろうか? 社会から不要不急とされていたものこそが、人生にとって大切だったのではなかったか。

感染拡大は防がなければならないし、活動の制限は必要なのだろう。ただその活動制限を「不要不急ではない活動だから制限する」とはもう表現してほしくない。オリンピックの開催に関しても、感染拡大防止に必要かどうかで判断すべきだ。もし不要不急だからオリンピックを中止すると判断してしまった場合、スポーツ界への打撃は非常に大きいものになるだろう。


活動制限は長期戦になっているけれども、長期的に不要不急な活動は存在しない。しかしながら活動が不要不急であると言われ続けて、ずっと活動を自粛している人たちがいる。その活動こそが多くの人たちの生活を彩っていたはずなのに。これ以上不要不急という言葉で、活動を踏みにじらないでほしい。