2021-Week21 動物扱い/風邪と通院判断/地域や人種ではない/どうやってやるのか/ランニング/赤い公園ラストライブ/オリンピックカルチャー/ファーザー

20210524

選手村にゴムを準備するの、恒例みたいになっているけれど選手達は怒らないのかなと思う。動物扱いか。

さすがに「楽しいパーティー会場を東京に準備しました! 世界各国の選ばれたみなさん、ワクチン接種して是非ともご参加下さい」というノリで開く大会は、どの国でも今必要としていないだろう。

20210525

風邪を引いて一日寝ていた。さすがに体調が悪くなるとコロナウイルス感染の可能性を考えてしまって不安になるし、無理して仕事をするよりも寝て一回リセットしよう! と思う。

ただこういう体調が悪い時に病院に行くべきかはどうかは少し迷う。風邪ぐらい家で治せばいいと思うけど、万が一のときに通院履歴があった方が助かる可能性が高くなるのではとも思うし、体調悪いのにわざわざ通院してコロナウイルスへの感染リスク高めるのも危険だと思う。コロナ禍における一人暮らしのリスクは判断を惑わせる。結局、通院しなかった。


神戸に住む親からワクチン接種の予約が取れたとのLINEが届いた。大規模会場で来週にも接種ができるらしい。神戸は医療崩壊が進んでいる地域というイメージだっただけに、迅速に手配ができたことに少し安心した。ありがたい。

20210526

IOCの委員が開催について色々と発言しているけれど、これだから欧米の白人は! とは決して言いたくない。欧米だから、白人だから偉そうにしている! みたいな認識に引きずられたくない。開催にたいして懐疑的な眼を向けているのもその欧米のメディアだし、発言と人種は全く関係がない。役職の高い人が資本主義的な立ち位置で物を言っているだけで、地域や人種に結びつけたくはないなとは思う。


「できるできないを考えるのではなく、どうやってやるのかを考えろ」とは若い頃によく言われた。

そしてそう言われてやってみたことは、だいたいできた。だからその姿勢は正しいと思ってはいた。ただ今になって思うのは、そのできたものが本来の目的を達成できていたのかどうか、ということだ。

あらゆる手を使ってどうやってやるのかを考えたときには、ゴールを動かしてできたことにする、というのも選択肢の一つになる。仕様を一部変更したり、範囲を縮小したり、それが本来の目的のためであれば良い。ただできたことにするために変更した結果、目的まで変更してしまい、何のためのものなのか分からなくなってしまっては元も子もない。

目的が変更されてしまった結果、「表向きの目的」が引っぺがされて「身も蓋もない目的」だけが残ってしまう、ということだってあるだろう。できたことにしたものが、本当に「できて」いたのか、達成したい目的がちゃんと達成できたのか、ということを今まで真面目に振り返ってこなかったなと反省する。

20210527

夜にまたランニングにチャレンジしてみたけれど、どうもやっぱり五キロ持たない。以前は「明日に響かないように五キロにしておこう、そのかわり五キロを全力で走ろう」と思っていたのに、今は全力でも五キロに届かないのだ。コロナ禍でジムを辞めてランニングの習慣が無くなって、明らかに心肺能力が低下している。

マスクで十分に呼吸ができないからすぐに限界になるかもしれないな、走り慣れていないコースだから疲れがすぐに溜まるのかもしれないな、と理由を探したくなるけれども、誰かに言い訳をする必要はないし、まっとうな言い訳を思いつけたとしても体力が戻るわけではない。長い距離が走れなかろうが、途中で歩くことになろうが、身体を取り替えることはできないので、この身体でできるベストを探っていくしかないのだ。と思いながらランニングウェアを洗濯機に投入する。

20210528

赤い公園のラストライブを観た。やっぱり赤い公園津野米咲が中心のバンドだったのだなと思った。メンバーが津野さんを尊敬しているからこそ、津野さんがいない状態で活動を継続できなかったし、津野さんが作った曲をライブで披露することなく解散することができなかったのだと思った。

ラストライブは避けられないことだけれど、避けられないならせめてスペシャルにやろう、スペシャルにやらなきゃ一回で幕は下ろせない、という気持ちで構成されたライブだった。こういったスペシャルなラストライブは東京で開催されて、関東圏に住んでいないと見られない、ということがありがちだったけれど、配信でも見られるようにしてくれたのはありがたかった。ライブ現場と配信で見るライブは違うけれども、今後もこういったライブ配信の取り組みがあってほしいと思う。

それにしてもジェットコースターのような曲ばかりだ。これは赤い公園のメンバ-しか演奏できないだろう。この楽曲の数々がこれから演奏されることがないのは、残念だ。

20210529

オリンピックのせいでコカコーラ製品を忌避してしまうようになっている。いよいよ面倒くさい感覚にたどり着いてしまった。

正直なところ、オリンピックがここまで世間から忌避されるとは思っていなかった。オリンピックは中止すべきだという声を対面でも普通に聞くようになった。

同じスポーツでも、プロ野球Jリーグは開催して欲しいけれど、オリンピックは開催して欲しくないと思っている人は多いだろう。国内リーグと海外を大きく巻き込んだ大イベントは規模が違うから、判断が分かれているのかもしれない。けれども開催の是非が問われているのがオリンピックではなくサッカーのワールドカップだったら、世間はどんな反応だっただろうか。

サッカー日本代表の活躍を日本で観たいと思う人は、オリンピックより多いと思う。代表チームの活躍や代表選手のサクセスストーリーを理解しているから、ファンはワールドカップまで追いかけて活躍を見守りたいと思う。物語の先を確かめたいと思うのは自然だ。

そう考えるとオリンピックの不人気は、実は多くの人がオリンピックに思い入れを持っていない、ということを表しているのかもしれない。オリンピックのどの競技に興味がありますか? と聞かれて回答に困ってしまう人は意外に多い気もする。コロナ禍ではなかったなら、今頃テレビでは出場選手の歴史などが特集されていて、みなオリンピックへの期待に胸を膨らませていたのかもしれない。ただ本来は、オリンピック関係なく以前から応援していた人たちが、オリンピックで活躍するのを見て喜ぶのが自然なのだろう。駅伝やマラソンをよくテレビで観る人が、代表選考会などを追っかけた上で、オリンピック本番を楽しみにしている、というのは理解ができる気はする。

オリンピックは、日本のカルチャーとして根付いていなかったということだと思う。プロ野球もサッカーも、文化として根付いたからファンに支援されているし、他のスポーツでも高い認知を得ている種目はある。ただオリンピックというムーブメントは、その影響の大きさに対して支持する人が、実際はかなり少なかったということだ。

20210530

「ファーザー」を観た。つらい映画だった。

老いによる衰えは誰にでも起こり得ることだ。衰える立場になることも、衰える人を介護する肉親になることも、どちらも現実的に自分の身に降りかかる可能性がある。

介護する肉親の場合、介護に疲れてしまう前に外部のお世話になることで負担を回避することができるし、それが現代では合理的であるとされている。ただその選択肢は、衰える人にとってどのように見えるのか。この映画が示すのは衰えつつある父とその娘の、ある一例だ。

老いは、ただマイナスの出来事だ。そしてそのマイナスは回復することなく、少しずつ重荷となっていき、いつかは一人で自立できなくなる時が来る。自分一人で背負えなくなった老いのマイナスは、他の誰が背負うべきなのだろう。

老いは自業自得であり、肉親であっても誰かに負担をかけるべきではない、外部に背負ってもらうべきだ、というのが現代調の考え方だ。しかしながらこの映画は、その「自業自得」とはこういうことですよ、と私たちに老いる視点を突き付けてくる。その一方で、背負う誰かの苦労も同時に突き付けてきて、安易には正解のメッセージを提示し、観客を安心させてくれない。

老いは、ただマイナスの出来事だ。その対応に明解な正解はない。だからつらい。しかし当事者や関係者が老いを理解することで、そのつらさを軽減することはできるのかもしれない。この映画はその理解の一助になり得る映画であり、観る価値があると思う。