20210426 通勤時間/本屋の意義

毎日服用している薬がゴールデンウィークには切れてしまいそうなので、仕事を終わらせてから通院に出かける。駅前の人出はそれ程減っているようには見えなかったけれど、通勤の中継地点として足早に通り過ぎる人が多いようには見えた。緊急事態宣言下でも出勤させられていた頃は、会社と自宅をただ往復する時間が苦痛だったことを思い出す。会社から家に帰るまでにどこか寄り道をすることが、自分の時間を差し出して労働しなければならない日々に納得するための材料となっていたのだと思う。


ネットで興味を持った本を駅前の本屋で購入しようとして、緊急事態宣言による休業を思い出した。百貨店のテナントとして入っている本屋は、緊急事態宣言が明けるまで休業してしまうようだ。私がよく足を運ぶ本屋は駅前に三店あるけれど、今日も開店していた一店にはお目当ての本の在庫がなかったので、手に入れるのはもう少し先になりそうだ。

すぐに読みたいのならネットで注文したらいいのだけれど、ネットで本を注文する習慣がなく判断に迷ってしまった。ネットで本を注文したときに帯が破れているものが到着したことがあって以来、私はネットでの本の注文は避けるようにしている。本に限らずネット店舗は商品の扱いがやや荒い印象がある。中学生の頃に、小口の状態を何冊も入念に確認してから一冊を選んで買う大人を目撃して以来、本屋で本を買うときには新品に近い状態のものを探し求める癖がついてしまった。ただそうして買った本でも気軽に外に持ち運んで、読み終わった頃には汚れが付いているので、気の持ちようではあるのだろう。

緊急事態宣言で本屋が閉まるとなって心が落ち着かなくなってしまうのは、やはり本屋に通うことが私にとっての生活の一つになっていたからだ。本を買うだけならネットで済ませられるのにわざわざ足を運んでいるのは、そこに何か新しいものを求めていたからだろう。

本屋ほど、足を運ぶ度に何か新しいものを見つけられる小売店はないと私は思う。どの小売店も品揃えは度々更新されるけれど、その陳列された商品から発せられる情報量の多さは本屋がずば抜けている。もちろん全ての本屋がそうであるわけではなく、つまらない本屋もある。店舗の面積の大小関係なく、売れている本だけを並べているような本屋には足が向かない。

私が本屋に足を運んでいるのは、本の陳列と対話がしたいからだ。ネットの書店がいくら私の購買傾向を分析しても、私を中心としたリコメンドしか生まれないし、それは本屋の陳列には敵わない。私は私以外の誰かの確固たる意志を陳列から感じるために、本屋に足を運んでいる。緊急事態宣言における休業下ではその対話ができないのが寂しい。