20210421 関西というリスク/望むべき行政

ゴールデンウィークの休みはどうするの? と職場で聞かれてゴールデンウィークがもう来週に近づいていることに気づいた。ただコロナウイルスの感染者数が増えている今、どこかに遠出するようなムードはない。家で過ごすぐらいなら別にカレンダー通りでいいかな? と思ったけれど、三十日は休みを取ることにした。二十九日から翌月五日まで、一週間の連休だ。

住んでいる場所が関西ではなかったら、もう少しこの一週間のゴールデンウィークを楽しもうという気持ちになれたのかもしれない。住んでいる地域によって休日の楽しみかたが左右されてしまうというのは、これまで想像することがなかった。都会に住んでいるほうが楽しみが多いと思っていたけれど、都会に住むことがリスクとなるとは思わなかったな……とまず思ったけれど、関東のほうが都会で人口密度が高いのに、関西のほうが状況が逼迫しているのだ。単純に都会だから危険であるとは言えない。これは関西という地域のリスクが明らかになってしまったということなのだろうか。そしてそのリスクの一部が自分なのだ。

生まれも育ちも関西なので、関西に住んでいなければもっと休日を楽しめたのにな、と考えてしまうのは悲しい。ただ長年住んでいる関西を今更離れる気はないものの、大阪からは引っ越したほうが良いのかもしれないとは考えている。この一年間を通して、コロナウイルスへの対策について十分にレビューできていないことにストレスがある。未知なものに対して失敗することはいいが、失敗が先の判断に活かされているとは思えない。ただ京都や神戸の方面に引っ越すとしても、神戸だとあまり状況は変わらないのかもしれない。


大阪府」という大きな地域を一括りにして首長が判断を下すことが難しいのではないか? と感じる。地域の人口が大きくなればなるほど、コロナウイルス感染者数の増減は他人事になってしまうし、地域一括の施策が個々の状況に合わないケースも増える。大きな地域を少ない人数で治めることができるのは理想なのかもしれないけれど、この一年間を見る限りは、大阪は北と中央と南ぐらいで三分割して各地域の首長がそれぞれ判断していた方が、きっと状況はもう少し安定しただろう。

私たちはもっときめ細やかな対応を求めていて、少なくとも今の行政はそれに応えられていない。少なくともコロナウイルスへの対策においては、それが明らかになったと感じる。コロナウイルスの感染拡大は、行政を自分のものとして真剣に考えるきっかけにはなっている。そもそも私たちは、どういった構造の行政を望むべきなのだろうか? それは右や左といった対立の話ではなく、そもそも何を期待すべきなのかという話だ。