20210516 circle配信/二周目/世代間

福岡で例年開催されていた野外フェスcircleライブ配信を見た。行ったことがないフェスのライブが自宅で観られるのはありがたい。野外フェスの光景がそのまま配信されているわけではないけれど、そのフェス特有の空気みたいなものが画面越しにうっすら伝わってくるし、福岡への呼びかけをしているアーティストを見ると、特に福岡に縁がなくても感じ入るものがある。

どのアーティストも、大なり小なりのフラストレーションを抱えながらパフォーマンスしていたように見えた。無観客ライブの穏やかさや、ライブが久々にできる喜びの中にも、なにかヒリつくような空気があった。フェスにありがちな「普段のライブのハイライト」ではない、通常のテンションとは異なるステージが見られるのは、特に国内のアーティストにおいてはそうそうない。アーカイブとして残ることはないだろうけれど、メモリアルなフェスだったのではないかと感じた。


緊急事態宣言以降、日が経つのが早い。もう五月も半分終わったのかと思う。今年は梅雨がもう到来する。あっという間にこの春も終わってしまった。

去年の春からコロナウイルスの感染が広がって、春夏秋冬と時間が止まったような日々を過ごしてきた。そしてこの春もまた、時間が止まったように季節が過ぎ去っていく。少なくともワクチンが完成しないとこの状況が終わらないことが明らかで、そのワクチンも一年で接種が終わるわけがないとは分かっていたけれど、二回目の春がまたあっという間に過ぎ去ってしまうのには耐えがたいものを感じる。「自粛疲れ」といった言葉では表すことができない感覚だ。

また今年の春もなのか。これが「ニューノーマル」なのか、こんな日々がこれからも続くのかと思うと、路上で飲む若者の気持ちも分からなくはない。これが短期的な自粛ではなくて、こんな日々がこれからも続いてしまうのであれば、彼らは彼らなりのニューノーマルを作ろうと考えるだろう。これはきっと彼らなりの「生活改善」なのだ。

このコロナ禍では、世代間の断絶を強く感じる。世代によってコロナウイルスの脅威は異なるし、時間の感覚も異なる。同じ年代でも家族や子供の有無で、コロナウイルスへの対策意識が大きく違ったりする。コロナ禍においては特に、自分の常識が誰にとっても正しいものではないと感じることが多い。相手のことを尊重して会話する、というコミュニケーションの基本を強く意識する日々が続いている。

20210515 失敗できるメンタル/出口

教習所通いを止めていたのだけれど、期間を空けてしまうと折角今まで身に付けてきた感覚を忘れてしまいそうになるので、恐る恐る再開することにした。

あまり運転が上手くない自覚もあるので、再開するときに操作を一から思い出すような状態になってしまうと、失敗し続けて教習が嫌になってしまうんじゃないかという心配もある。失敗しながら技術を学ぶ楽しさはあるのだけれど、失敗し続けてしまうと楽しさより苦しみが勝ってしまう。

失敗する経験に弱くなってしまった。メンタルが弱くなっているのだ。若いころに失敗する経験が必要というのは、こういうことなのだなと思う。能力が下がってきて初めて、その能力が多少衰えても大丈夫なように鍛えておくべきだったことに気付く。


外出したついでに映画を見た。久々の映画館だ。休日なのに映画館はやはり観客が非常に少なく、こんな状況が続いたら維持できないだろうなと心配になる。休業は避けられているとしても、この状況下では少しずつ疲弊しているのだと思う。「不要不急」という言葉が映画館から人を遠ざけさせている。

映画は基本的に黙って観るものなので、ワクチン接種が進めば程なくして通常営業に戻せるだろう。そう考えると映画館にとって長いトンネルの終わりは、わずかにでも見えていると言えるのかもしれない。大多数の人が接種し終わる目処は立っていないし、ワクチンの効果がどこまで期待できるかは不確実だけれど、出口へのシナリオが少しずつ具現化していることが、希望となっていたらいいなと思う。

20210514 運動不足と不要不急/店員のガイド/サイズ違い

緊急事態宣言によって運動不足が加速しているので、ちゃんとランニングを始めようと思う。今のランニングシューズはボロボロでもう限界なので、ランニングシューズを新調して気持ちを高めたい。ただシューズを買うなら実物を見て試着してから買いたい。しかし緊急事態宣言でお店は閉まっている。デッドロックで詰んだ。

と思っていたけれど、京都ヨドバシの上にあるファッションフロアが開いていたので行ってきた。私にとっては緊急事態宣言によってシューズが必要なものになったわけで、どの判断がどう影響するのかを予測しながら「不要不急の活動」を切り分けるのは難しいなと思う。

梅田のヨドバシも閉店してほしいとの要求が出ていたけれど、ヨドバシが閉まるとテレワークの準備ができない、という会社や人がいるかもしれないのだ。インターネット通販でいいのでは? と思っても、慣れていない分野の買い物であれば、通販より実物を見て選びたいと考えるだろう。

安かろう悪かろうの商品が幅を利かせている昨今のインターネット通販で、間違いのない買い物をすることは難しい。だから今でも店舗での小売が成り立っているのだし、店員に求められるのは商品への深い知識なのだ。

あれ? 店員が商品をガイドするサービスをインターネット通販でもやればいいのでは? それだったら閉店しても店員が遊ばないだろうに。


買ってきた靴のサイズが、希望したサイズより0.5cm小さいものだったことに気付いた。箱のサイズ表示とその中のシューズのサイズが違っている。ただこのシューズは実際に試着して、自分の足にピッタリだと判断して買っている。だからその靴の実際のサイズ表示がどうだろうが、本質的な問題ではない。

しかし釈然としない。サイズが小さいと分かった瞬間から、必要以上に足が締め付けられている気もしてきた。気分の問題で申し訳ないけれど、あの店には二度と行かないと誓う。

20210513 小さなパイ/英会話

ワクチンを打つまで私たちはある程度の期間を耐え忍ぶ必要があって、それまでは感染拡大を防ぐために、何度か活動を制限しなければならない。感染状況を踏まえ、どの活動を制限して、どの活動を制限しないかを選ばなくてはならなくて、それは小さなパイを大勢で奪い合っているようなものだ。

その小さなパイを大きく切り取って自分のものにしようとしているのがオリンピックであり、それに対して不平不満が出ているのが今の状況だけれど、それは結局誰にパイを食べさせたいかという思いがすれ違っているから起きることなのだ。オリンピックを中止して欲しい人の中でも、オリンピックより何を優先すべきなのかは意見が異なるだろう。

活動制限について誰もが納得できる判断をすることは難しいのだけれど、誰もが納得できる判断なんかないからオリンピックやってもいいよね? というのはさすがに通らない、ということなのだと思う。曖昧な判断でも許されたことが、危機的な状況においては許されなくなってきている。


会社の自己啓発支援制度で英語が勉強できることに気づき、そちらでも英会話レッスンの手続きを進めることにした。DMM英会話はとりあえずコミュニケーション量を増やすのに向いていそうなので、他の英語の勉強を進めるとしても平行してDMM英会話は続けて無駄にはならないだろう。申し込んだ時点でやった気になってしまって肝心の勉強が進まない、という積読癖にも通ずるいつものパターンにならないように頑張ろう。

20210512 救急車のサイレン/タイムリー

緊急事態宣言が延長になった。ただ今日からは業種によっては少しずつ要請が緩くなっていたりしているので、延長というよりは次の緊急事態宣言フェーズに入ったように感じる。感染者数は減っているけれど、今感染しても自宅療養になってしまうことを想像すると、一人暮らしの身としては安心できる状況ではない。

このゴールデンウィークの頃から、駅前に向かっていると、サイレンを鳴らしながら走っている救急車を必ずといっていいほど見かけるようになった。容体が悪化したコロナウイルスの感染者を搬送しているのだろうか……と想像して心配になるし、いま目の前で緊急事態が起きているのかもしれないと身が引き締まる。いよいよここまで来たのだな。


駅前の本屋の休業状況が変わらなかったので、いよいよ本をどう手に入れるかを考えなければならない。空いている本屋はあるけれども、そこに置かれていない本が欲しいのだ。きっといま休業しているあの本屋なら店頭に揃えていただろうに。

イムリーに何かを欲しがってしまう気持ちは、不急ではないけれども不要だ。ただタイムリーに何かを手に入れることは、今すっかり少なくなってしまった「世の中と繋がることができる行為」の一つなので、なかなか止められないのだろうなと思う。

20210511 打ち勝つ戦略/大豆田とわ子/英文法

なんやかんやで欧米より感染者少ないんですけど? みたいな観点でさざ波とか言ってるから台湾になれなかったのだと思う。台湾ほどシリアスに感染予防対策ができず、欧米ほどワクチン接種のペースが進まない。国それぞれで地理やリソースは異なり、取ることができる最善の対策も異なるだろう。コロナウイルスにどのように打ち勝っていくのかビジョンが提示されず、まだまだ暗いトンネルを歩き続けなければならないから苛立ちが募るのだ。

と思ってしまうのは、この国に科学や規律を期待しすぎているのからかもしれないなと思う。今の状況がベストであり、身の丈であるのかもしれず、無いものねだりの不満を抱いてしまっているのかもしれない。


「大豆田とわ子と三人の元夫」を観た。数年ぶりに日本の地上波のドラマを観たのだけれど、すいすいと見続けられて驚いた。キャストが素晴らしいと時間を忘れてしまうということか。音楽も好みだし、もしこのドラマを退屈だと感じてしまったらテレビドラマ復帰は無理だろうなと思っていたけれど、そんな心配をしながら見る必要は全くないドラマだった。素直に面白い。今日放送されていた総集編と、見逃し再生ギリギリの4話と最新5話を見たけれど、1話から3話もちゃんと見直したいのでU-NEXTに加入するタイミングを見計らっている。


英語の勉強のために、英文法の本を買ってきた。社会人になってから英語の必要性を感じる度に、色々な英文法の本を買ってきたけれど、分厚さに圧倒されて読めずに売るか、薄い本をさっと読み切って何も変わらないかのどちらかだった。今回は分厚い方だけれど、なんとか投げ出さずに頑張りたい! と日記に書くことで粘り強く頑張れたらいいなと思う。未来の自分、何卒。

20210510 アスリートの権利/家の時間

アスリートはオリンピックの開催について、決まったことを受け入れるだけだという姿勢であるべきなのか? という問題提起を知った。なるほど。

もちろん参加予定であるアスリートのスタンスとして、オリンピックが開催されてほしいという個人的な気持ちはあるだろう。ただその意見とは別に、開催されるべきかどうかについても、参加する当事者として開催の是非を議論できる立場ではあるべきだ。

アスリートが開催に反対すべきであるとは思わない。むしろ自分が参加できる晴れ舞台なのだから、基本的には賛成の立場を取るだろう。「個人的には開催に賛成であり、もちろん主催者の判断通りに開催されるべきだ」「個人的には開催に賛成だけれども、社会的な状況を考慮すべきだ」「個人的には開催をしてほしいけれども、社会情勢を考えると開催は止めるべきだ」ということを主張できるべきだと思う。

もちろん意見を表明しないのも一つの主張だ。しかし「黙って主催者の判断に従うのがアスリートの立場であるべきだ」という考え方はアスリートの権利を矮小化している。アスリートを聖域化することで責任を奪ってしまうのは、お前たちは何も分かっていない、我々の娯楽のための人間だ、と言っているようなものだ。


家の近所のスーパーへの来客者が、六時頃に増えることに最近気付いた。六時に商品に割引シールが貼られるからだ。店員さんに付いていってシールが貼られる商品を吟味する数人の客。子供の頃にこういった光景をよく見たなと思う。

リモートワークをするようになって、行動パターンが子供の頃に近づいてきた。通勤含めて仕事に束縛される時間が減ったからだ。家から遠くで過ごす時間が増えることが大人になることだと思っていたけれど、こうして家の時間が増える生活に戻ってみると、どこにいても大人の生活はできるのだなと思う。